〈プロローグ的モノローグ〉7

奥崎謙三は、ニューギニア戦線から九死に一生を得て帰還した人間です。私の父親の積賢治は、沖縄戦で、負傷しながらも生き残った人間でした。生前の父は、沖縄戦についてほとんど語ることをしませんでしたが、その軍歴は調べることはできます。それによると、沖縄を守るために編成された第三十二軍に中国大陸から編入された第六十二師団の独立歩兵第十四大隊という部隊の第三中隊に属する小隊長として、積賢治の名前があります。この部隊は、沖縄上陸のアメリカ軍の進攻を遅らせるために戦ったことで有名な賀谷中佐の指揮する独立歩兵第十二大隊と共に、沖縄戦のはじめから終りまでを最前線で戦い続けたのです。あの沖縄戦は、軍事的に見れば、その前のペリリュー島や硫黄島と同じく、アメリカ軍に対して、日本軍というより、日本兵というものに決定的な刷り込みをしたと考えられています。それは、二度と日本兵とは戦いたくないという、ある種の畏敬の念といってもいいものでしょう。それが、占領軍による日本支配が長く続いた最大の理由だということに、私が気付いたのは、二十一世紀に入ってからでした。恐怖は心を閉ざし、思考を停止させます。それは、人間も国家というものにも共通する宿命なのです。

(つづく…)

二千二十二年 七月一日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉6

中学一年の三学期から、卒業までを広島で過した後、父の大阪刑務所への転勤に伴って、大阪は堺に転居して、今度は大阪弁に遭遇することになりました。私を指さして、「自分な」という、その指の向きが逆ではないかと思ったことは、いまでも忘れられません。大阪では、「君」と呼ぶところを、「自分」と呼ぶのです。その高校一年の夏休みに、転勤して間もない父が、うつ病で自殺しました。病院の七階からの飛び降り自殺でした。その前にも、入院中に、首吊り自殺をはかったことがあり、見舞いに行った少年の目にも、その首についた細いロープの傷痕は痛々しいものでした。なぜ、大阪刑務所に転勤先が変わったことで、父が自殺したのか。長い間、謎でした。それが、ああ、これなんだと突然、理解できたのが、「ヤマザキ、天皇を撃て」の奥崎謙三が、出ていたドキュメンタリー映画を見た時でした。天皇パチンコ事件で有名な奥崎謙三は、日本兵が日本兵を食べたとされるニューギニア戦線の生き残りで、当時、大阪刑務所の受刑者だったのです。映画で、その奥崎が出していた波動こそ、父の死で、私が受け継いでしまったものに含まれていたものだったからです。「シャムは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」といわれた、あの戦線の記憶です。

(つづく…)

二千二十二年 六月二十四日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉5

そんなこんなで、小学校は時々、不登校だったものの友達も増えて卒業。当時、住んでいたのは、元の東京拘置所官舎。あの東京裁判の死刑執行が行なわれた巣鴨プリズンが返還されて、職員の官舎なども整備されていたタイミングで、父親が、法務省の本省務めになったためでした。それが、中学一年の二学期末に、その父が、突然、広島拘置所の所長として、転勤することになったのです。普通、公務員に、そんな移動は起きないのですが、その背景には、後に映画にもなるヤクザの広島抗争があり、拘置所内でも、大不祥事が進行していたのでした。現実に、父は、命の危険にもさらされたようですが、任期中に、秩序は回復。次は、大阪刑務所に転勤ということになりました。この広島転勤で、はじめての広島弁に遭遇、自分のことをボクという東京っ子が、どんな目に遭うかは分りますよね。さらに、東京で行っていた中学は、あまりレベルが高くなく、広島に行ったら、教科書も違う、各教科の進捗もスゴくて、完全に落ちこぼれ化したのでした。青少年にとっては、こうした環境の激変というのは、引きこもりや、落ちこぼれのトリガーになるということを、イヤというほど体験させられたということです。

(つづく…)

二千二十二年 六月十七日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉4

そのことが、母親にとってはショックだったのか、面白がっていたのか、この小学一年の通信簿を大切に取っていたので、中学生ぐらいの時に見せられました。そこには、教師のコメントとして、「授業中、窓の外を見ていることが多いようです」だったかな、そんな風な子だったことだけは憶えています。当然、学校は好きではなく、集団行動も苦手、朝礼なんかではしょっちゅう、貧血で倒れる、まあ、そんな子供でした。

学校へ行く前になると、頭痛を起こし、休んでもいいといわれると、午後ぐらいになると、元気になり、一人遊びをしているので、家族からは、仮病を疑われていたのです。ただ、当人は頭痛になると吐き気もひどくなり、顔も青白くなるという、現象に、自分は病気だと信じていたりします。それを心配した、父親が東大病院に行かせて、いろいろテストされて出た結果は、自律神経失調症。当人にとって嫌なことをやらされると、発症するらしい、と家族は理解したようですが、小児ガンのような病気ではないと安心したようです。それで、当人は、たぶん自分は大人になるまでに死んでしまうのだろうと思っていたのです。カワイイもんです。

(つづく…)

二千二十二年 六月十日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉3

その堂々めぐりの原因は、と自分の人生、とくに幼い頃の記憶をまさぐると、出てくる、出てくる、敏感過ぎた自分のイヤな記憶。実は、私は幼稚園に行けませんでした。理由は、母親と共に見学に行った幼稚園で、たぶん年上の男の子に、面と向って、「変なヤツ。オマエなんかくるな」といわれ、イジメの予感で、イヤになり、幼稚園の送迎バスが来た朝に、「イヤだ、イヤだ、行きたくない」と柱につかまって抵抗すること、数日、親もあきらめたという次第。早生まれだったので、ちょっと小さかったことと、人混みに出ると、それだけで、激しい頭痛に襲われ、顔面蒼白となることをくり返していて、弱い子だったことも親をあきらめさせる原因になったことは確かでしょう。そして、小学校、正装した母親に連れられて、校門を入ると、新入学の名簿が、各組ごとに貼り出されていたのですが、どこを見ても、ボクの名前がない。「アラ、大変だわ」という母親の手を引っ張って、「帰ろうよ、ココじゃないんだよ」といってみたのです。当然、無視され、学校側がどこかの組に名を書き込むのを見ていたのですが、傷ついたというより、恥かしさでいっぱいでした。幼稚園にも行かず、入学式もこんなスタートですから、小学校の一年間は、ほとんど、何も記憶がないのです。ハ、ハ、ハ。

(つづく…)

二千二十二年 六月三日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉2

なんで、こんなやっかいな人間として生まれてしまったのか、ということを、考えるために人間は生まれているらしい、と私が思いはじめたのは、十八才ぐらいのことだったかナ、当時、私の父が、私が高一の夏休みに自死して、父を死に追い込んだ、ウツ病の原因となるエネルギーを全身にため込んで、人を殺すことと、自分を殺すことばかり考えていた頃のことです。

私の母方の叔父、その人物は昭和の時代の少年院の伝説ともいわれた教官だったのですが、その叔父が、会いに来てくれて、いった言葉があります。

「あのさあ、いまの君のその目、気になるんだよね。オジさんが知っているその目は、殺人者のものなんだな…。…。…。気を付けないとナ…」

ドキッとしました。見破られたと思い、冷汗が出ました。なんで、こんなやっかいな人間になっちまったんだろう。なんでだろう。なんでだろう…。

ほかの人間は、もっと楽そうに生きているように見えるのに、なんで、自分だけがこんなに面倒臭い人間なのか、という堂々めぐりが続くのです。

(つづく…)

二千二十二年 五月二十七日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉

人間というものは、まことにやっかいなもので、そのやっかいな自分と向き合うことで、大のオトナ、くり返すと、ダイの大人への道を歩むのです。このプロセスは、たぶん、すべての人間に共通する通過儀礼です。早く通り過ぎれるヒトもいれば、いつまでかかっても、通過できないヒトもいるワケで、当然、「引きコモル」モノや、「落ちコボレル」モノも生まれます。
そうなると、人間の頭の中には、次のような、自分のもののような誰かのもののような言葉が棲み憑くようになるのです。

「アー、イヤだ、イヤダァ~。ナニが嫌だって、ナニより、自分が嫌だァ~」
その別バージョン
「ウー、ウンザリだ。ウンザリだ。こんな毎日、ウンザリだ。こんな人生、もう、ウンザリだァ~」
その他にも、別なバージョンが無数にあって、頭の中に、気が付くと、流れていて、それを忘れるために、脳を暴走させる方向に使うようになるのです。理屈は、そうです。いくらへ理屈をこねても、そうなのです。

(つづく…)

二千二十二年 五月二十日 積哲夫 記