<第三章>その七

第三章 人間は審判の容器ということ

その七)ひも理論の宇宙

この宇宙とは何なのか。それを考え続けてきた人間が、いま、到達しているのは、十一次元にある振動する「ひも」のようなもので、この世の物質は形づくられているという理論です。まだ、そうだとは決まっていませんが、可能性は高いと考えられているようです。ここでいわれている十一次元という世界を、普通の人間はイメージすることさえできません。しかし、この宇宙に人間原理が存在するのだとすると、この十一次元を頭の中でイメージできるような人間がやがて生まれて、そのイメージを人間界に伝達する日が来ることになるはずです。意識化され、認識されるということは、そういうことだからです。スピリチュアルなことに興味のある人間の多くは、この次元という話で、精神世界を理解しようとします。それが、なぜなのかは、やがて解明されるでしょうが、神が高次元なところに存在するという思い込みが、人間にはあるということです。つまり、この宇宙や物質の本質を追求していく先に、つまり、言葉でいうと高次元な領域に、神や神々の領域があるだろう、という本能のようなものが人間にはあるということです。それを、冷静に考えてみると、人間は宇宙のことを知りたがる、この宇宙には人間と同じ宇宙のことを知りたいというベクトルが宿っているということです。

(つづく…)

二千二十二年 一月二十七日 積哲夫 記

<第三章>その六

第三章 人間は審判の容器ということ

その六)宇宙の人間原理

この宇宙を説明するために、物理学の世界では、人間原理という言葉が使われることがあります。人間の存在に適合する宇宙の仕組みを、人間的にというか、人間の科学で考えると、そうした原理に行き着くということです。それは、素粒子の世界で有名な光のスリット実験で示されたように、観察者としての人間の存在があると、光は粒子の顔を見せ、人間の存在を感じないと、光は波として振舞うのは、何故かと考えた、ひとつの到達点なのかも知れません。つまり、人間の知識というものは、人間の存在を、前提にした物質というものが見せる姿しか、知ることができないのです。では、光という粒子でもあり波でもあるものが、観察者としての人間存在を、どのように感知しているかというと、まだ、人間は知る段階に到っていませんが、そこには、何らかの情報の受け渡しがあるはずだということになります。また、この情報伝達は、光の速度より早いことは数々の事例で明らかなことから、光の速度より早いものは存在しないという、物理学の知識もそこには適用されない領域ということになります。これを説明するためには、何かを認識する意識という人間がつくり出すエネルギーに、この宇宙の素粒子の秘密を解き明かす情報が含まれていると考えるしかなくなるのです。すると、この宇宙の人間原理というのは、案外、宇宙の本質に近づくアプローチかも知れないということになります。

(つづく…)

二千二十三年 一月二十日 積哲夫 記

<第三章>その五

第三章 人間は審判の容器ということ

その五)宇宙の相互作用

人間は意識を持つ存在で、それはミクロコスモスと呼ばれてきました。つまり、小宇宙は意識体ということです。ところが、この意識というものは、人間の物質的なものからのみ生じたのか、それ以外の要素も含めた領域から生じたのか、いまの科学では説明できません。また、人間の意識の座である脳は、その本来あるべき能力のほんの数パーセントしか使っていないといわれています。この人間の脳のやっかいなところは、認識していないものは、ない、と判断してしまうことで、そこの部分に光を当てて、無意識や潜在意識といった言葉が生まれ、実は、その領域の活動が、人間の表層の意識を規定していることが分り、心理学や精神分析学などの分野の研究が進んだのでした。つまり、人間が、自分たちの意識活動のほとんどは、全体のごく一部だということに気付いて、この物質宇宙というものは、宇宙全体の表層の数パーセントに過ぎず、残りは、人知にはないダークマターやダークエネルギーというものが約95パーセントを占める、宇宙の姿を認識するという知に到ったのです。そこには、ミクロコスモスとマクロコスモスの、ある種の相互作用が働いているように見えます。この関係性があるとすると、人間が宇宙を認識すると、宇宙もまた、人間を認識するということになるのです。

(つづく…)

二千二十三年 一月十三日 積哲夫 記

<第三章>その四

第三章 人間は審判の容器ということ

その四)暗黒の宇宙の中で

人間という小宇宙のほとんどが暗黒という状況は、意識という面で考えると仏教でいう無明ということです。キリスト教でいうなら、見えても見えず、でしょうか。人間が見るためには光がいります。その光という物質界の質量まで含んで、人間が知っているのは宇宙の総量の約4.9パーセントしかないのです。約95パーセントのことを何も知らないで、自分は誰か、自分はどこから来て、どこへ行くのか、と考えるよう運命づけられたのが、今という時代を生きる人間の姿です。この人知には、希望はありません。さらに、いまの人知に、人間の意識は、電磁波や光のように、約4.9パーセントとされる暗黒ではない領域の存在なのか、そうではないのか、という情報もないのです。人間は、脳の中で電気信号で情報処理をしているから、電磁波ということはできます。しかし、虫の知らせという言葉で知られるテレパシー的な通信を電磁波と決める根拠をいまの科学は持ちません。さらにいうなら、科学は奇跡と呼ばれる事象を説明することはできません。ほとんど分からないのが、この宇宙であり、それは小宇宙も同じだと考えるべきなのです。そんな小宇宙の中に、大宇宙の暗黒のことを知る鍵が置かれているという主張が、神知は人知に先立つという法則だと考えてみてください。そこに科学というより認識の未来があるのです。

(つづく…)

二千二十三年 一月六日 積哲夫 記

<第三章>その三

第三章 人間は審判の容器ということ

その三)大宇宙の投影か

人間が小宇宙だとしたら、そのもととなる大きな宇宙とはどのようなものなのか。現在の宇宙は137.7億年前に、ビッグバンで生まれたことに、科学的にはなっています。そのスケールは、仏教が伝えてきたミロクの世が56.7億年後にやってくるというものに近く、キリスト教圏にはこうしたスケール感はありませんでした。過去、生きた人間の小宇宙は、その時代の宇宙というものの認識に対応した大きさだと考えると、いまの人間の小宇宙は、137.7億年スケールの宇宙に対応していることになります。そして、科学的には、この宇宙はいまも拡大を続けていて、その未来はまだ予測不能なようです。さらに、人間が知っている宇宙の姿は、この宇宙全体の質量の約4.9パーセントに過ぎず、残りは、ダークエネルギーが約68.3パーセント、ダークマターが26.8パーセントということです。ダークエネルギーもダークマターも、まだ人知の領域にはない、その名の通りの暗黒が、この宇宙の大部分ということになります。もし、このほとんどが、暗黒のエネルギーと暗黒の物質という大宇宙を、そのまま投影しているのが、人間の小宇宙だとしたら、自分は何者なのかを知ることは困難でしょう。人間が意識化できるのは、自分という小宇宙の、たったの5パーセント以下ということなのですから。そこに、神知は人知に先立つという法則が、あるという精神学の知が役に立ちます。

(つづく…)

二千二十二年 十二月三十日 積哲夫 記

<第三章>その二

第三章 人間は審判の容器ということ

その二)小宇宙は教育される

人間が小宇宙という出発点には、人間が外的宇宙を内部に投影する仕組みを持っていることがあります。つまり、人間が小宇宙であるためには、外の世界を認識して、その全体像を脳内に投影できるよう、知識を蓄える期間、今日的な言葉でいうなら、世界観や宇宙観を学習する教育システムを持つ必要があります。近現代の学校教育が普及する前にあったそれは、宗教的なもので、一神教なら、この宇宙は唯一の神によって創造されたもの、といった聖書の記述に準じた世界観、宇宙観を人間の脳内に刻印しました。この洗脳とでもいうべき宇宙観から、人間を解放したのは、一般に科学と呼ばれる知の体系でしたが、その出発点は、神の存在を証明するための論理の構築だったとされています。日本が開国した時には、すでに、一神教と科学の分離は進んでいて、聖書という出発点なしに科学が教育可能なものになっていたのです。結果として、日本人は、アインシュタインの、神はサイコロを振らない、という内面的な葛藤なしに、科学を信じることになりました。それが、日本を急速に、西欧文明化させた原動力になったのですが、学校で教育された宇宙観には、神や仏の居場所はありません。つまり、唯物論的な宇宙観を刻印された、小宇宙がその脳内には存在しているのです。

(つづく…)

二千二十二年 十二月二十三日 積哲夫 記

<第三章>その一

第三章 人間は審判の容器ということ

その一)人間は小宇宙か

古くから、人間は小宇宙だと伝えられてきました。昔は、人間の考える宇宙も小さくて、マクロとミクロの差も少なかったはずですが、科学が宇宙のことを解明しつつある現在、それは、約百三十七億七千万年前にビッグバンによって出現したことが知られています。そして、現在の人間は、この宇宙のことをほとんど知らないともいわれています。それで、人間は、この物質宇宙全体を反映した小宇宙という古来から伝えられてきた伝承には、根拠があるのかというという疑問が、当然、生まれてくることになります。つまり、人間は知れば知るほど、知らないことが増えていくように、運命づけられていて、それが、小宇宙という言葉で表現されるのには、人間的な知のレベルでは納得がいかないと感じるのが、普通の人間の意識の姿です。しかし、もし、この宇宙が、「自分は何者なのか」あるいは、「自分はどこから来て、どこへ行くのか」ということを知りたいという意識のベクトルを持つ存在であると考えるなら、この物質宇宙と人間という存在の間には、マクロとミクロの関係性が成立することになります。人間の存在の目的は、自分が何者か、というテーマを意識化することだと仮定すれば、意識を生むのは何かということへの興味が生まれることになります。

(つづく…)

二千二十二年 十二月十六日 積哲夫 記

<第二章>その十

第二章 意識は波動ということ

その十)山岳と意識

日本列島の山も、古来、神の宿るものとされ、山頂に登ることはタブーとされていました。ところが、仏教の伝来で、人間の神々への怖れが減少した結果、修験者と呼ばれるような山岳修行者が現れ、山頂の多くには、信仰の対象として社が設置されるようになりました。明治の日本で、三角点の整備のために、剣岳に登った者が、そこに到達した先人がいたことを小説にした作品があり、その映画も生まれましたが、日本人は江戸時代から、実は山登りが大好きだったのです。有名なのは富士山登山の富士講ですが、山へ登ることは、信仰でありレジャーでもあったというのが、日本の伝統だといえるでしょう。その山の神格で、日本人がよく知っている名が、白山媛(シラヤマヒメ)です。そして、この山を代表する神の名が、日本神話の中のイザナギが黄泉のクニから、この世へ逃げ帰る場面で出てきます。つまり、山はこの世と異世界をつなぐ、境界であり、そこに神が宿るという人間の実感が、神話に反映されていると考えられます。シラヤマヒメは人格神ですが、その神格が地上に降りる前にも、山々には固有の意識体が宿っていたというのが、精神学的な立場での認識です。そして、その山々の本来の意識が、これからの地球のために、人間とコンタクトをはじめる用意が整いつつあるというのが、いまの時代なのです。

(つづく…)

二千二十二年 十二月九日 積哲夫 記

<第二章>その九

第二章 意識は波動ということ

その九)岩石と意識

日本列島には古来、磐座信仰というものが神道として存在して、そこで信仰の対象となる巨岩や巨石は、神々が降りる場として、認識されてきました。神々が宿ることで、岩や石は意識化すると日本人は考えてきたようです、しかし、その認識とは別に、日本には生き石という言葉も伝えられてきており、その石は神々が降りる依り代というよりは、石そのものが意識体であるという感覚で使われてきました。つまり、しゃべる石です。植物に意識があるということは、植物が生物であるという点で受け入れられたとしても、無機物である石に、意識があるということは普通の人間には理解不能でしょう。しかし、現実に磐座は波動的なエネルギー体で、人間の側の意識の波動を磐座の波動に同調させることができれば、情報を受信することが可能になるのです。これが、古代の日本に自然発生していた神道の原型だと考えられます。たぶん、縄文時代の日本列島では、そうした人間と自然界との意識交流が普通に行われていたのです。それが、神話の時代になり、人格神としての神々が、人間と交流をはじめるようになった結果、岩や石が神々の依り代とされたというのが歴史的な事実でしょう。神々の多くが日本列島から役割を終えて去った今日、その岩や石のデータが意識というものであるという認識が、急速に広がることになるはずです。

(つづく…)

二千二十二年 十二月二日 積哲夫 記

<第二章>その八

第二章 意識は波動ということ

その八)植物と意識

地球上の生物の中で、いまのところ多くの人間が、意識を持たないだろうと考えているのが、植物です。人間の脳に当たる思考の座を持たないので、意識があるとは思えないのでしょう。ところが、この植物という存在は、人間の意識エネルギーに敏感に反応するという事象が報告されています。近年、無肥料、無農薬の作物づくりのひとつの方法として、確立されつつある、波動(意識)農法というものがありますが、その農法の特色は、人間と植物が意識を交流させるだけでなく、植物達が情報というか意識を通わせて、土地を肥えさせていくというところにあります。一般に雑草といわれるものにも役割があって、植物群が、その土地の環境整備を協力して行っているのを、人間は手助けするだけの農法ともいえます。波動(意識)農法のキャッチフレーズが、「天地の余剰をいただきます」ということでも分るように、植物群が、余剰生産をしてくれ、人間がその余剰をいただくなら、無肥料でも、無農薬でも、食糧生産は可能になる訳です。その農法が成立するためには、植物と意識を通わせられる人材が、必要なのです。このような視点から、植物にも意識はあると考えるのが、やがて、普通になる日が来ると予測できますが、その時までに、御神木といわれるような古い巨木との意識交流ができる人間が増えて、植物の波動が意識という理解が深まるはずです。

(つづく…)

二千二十二年 十一月二十五日 積哲夫 記