<第一章>その十

第一章 試練は、学び、ということについて

その十)たましいの因果

いまある人間意識というものは、生まれる前にたましいの母体のようなものから、種を受け取って形成されたもの、と精神学では伝えています。つまり、肉体の形成には、卵子と精子が、精神の形成には、天と地の種子が授けられているという考え方です。これを受け入れると、人間の意識は、天の意識体ともコンタクトできるし、地の意識体ともコンタクトできるという、精神学が伝えている人間精神の可能性が理解できます。その人間のたましいに問題があって、人間の意識は、過去の因果律の中に封じ込められていると考えてみてください。それが、現行人類に課せられたカルマというものです。この問題に、先行して出会うために用意されたステージが、日本列島なのです。ところが、このたましいの問題に、いまの日本人が出会うためには、西欧文明、とくに一神教とその影響下で生まれた、さまざまな価値観、とくに唯物論と、そこに正当性を与えているように見える科学というものを、克服する必要があるのです。それはひとつの思い込みの宇宙といってもいいもので、そこに留まる限り、人間のたましいは、目的を見失います。人生は無目的となり、すべては偶然の産物となります。この意識の領域にいると、人間精神は内向する以外の道がなくなるのです。思考は停止しコモリ、コボレの世界に近づきます。

(つづく…)

二千二十二年 九月三十日 積哲夫 記

<第一章>その九

第一章 試練は、学び、ということについて

その九)自我の因果

人間というものは、自分というものを、社会的動物として生存するように、自己教育していくシステムを、本能としては持っていると考えられます。自我というものが、自分と他者の差異を認めるところから形成されていくのは、その意味で、当然のことなのです。それを、意識という面での成長で見ると、たとえば、母の体内で育っている段階は、完全な充足で、レベル的には神のようなもの。それが、この世に生まれて、母の母乳で生育する段階は、王様のようなもの、と考えることもできるでしょう。人間が、母の体内で、過去の生物の進化を追体験しつつ成長するということは、この世に出るまでは、神のたくらみを学んでいるともいえるのです。それが、この世に出たとたんに、その地位は、せいぜい王様にまで下落して、その後は、どんどん、地位を下げつつ大人への道を歩むのです。この段階で、生まれてきてしまった自分の地位の低下を、正当に受けとめるプロセス、別ないい方をするとしつけを、体験しないと、何が起きるか、ということです。神や王様のままでいたい自分の存在を、否定も肯定もできないまま、身体的には成長してしまうことになります。それが、ほとんどの場合、コモリやコボレの出発点にあります。やっかいなのは、人間の自我の出発点には、自覚のない神的意識があるということなのです。

(つづく…)

二千二十二年 九月二十三日 積哲夫 記

<第一章>その八

第一章 試練は、学び、ということについて

その八)地球の因果

西洋文明というものが、科学というものをつくり出し、この世を物質面から解明してきた結果、いまや、人類という種が、この地球にとって大きな負担になっているのではないか、という知に到っています。古い話でいうなら、マルサスの人口論というのがあり、食糧生産の伸びにくらべると、人口は爆発的に増加するので、やがて、破綻することになるとされていました。その立場は、いまの世界をコントロールしているとされる人間グループの共通の認識のようです。だから、人口は削減しなければならない、という立場です。ところが一方では、日本国の人口が、どんどん減少して行く現状を憂う声もあるのです。日本国の人口は、このまま行くと半減するという予測もあるくらいです。先進国とされる地域では、人口が減り、貧しい地域では、人口爆発が続くという、この地球の現状はどこから生まれたのか、という根源的な問いを、なぜ、西洋文明はしないのでしょうか。その答えは、簡単で、それは、西洋文明がもともと持っている収奪の文化の責任論に到るので、したくない、からです。自分たちの罪を認めないまま、問題解決ができると、かたくなに信じる姿勢こそ、その文明の限界を示しているといえます。その発想そのものが、いまの地球の病理の原因だと認識する勇気が、人類にはまだ与えられていないともいえます。

(つづく…)

二千二十二年 九月十六日 積哲夫 記

<第一章>その七

第一章 試練は、学び、ということについて

その七)時代の因果

いまの世界秩序は、第二次世界大戦後につくられ、旧ソ連の崩壊を経ても、アメリカ中心であり続けています。しかし、もう少し、長いスパンで見てみると、第一次世界大戦によって、世界を植民地というシステムで分割統治していたヨーロッパ列強の時代が終わりつつあった時代に、台頭したのが旧ソ連と、大日本帝国だったのです。当時のアメリカは、日本と同じような新興勢力だったのであり、当時の世界は七つの海を支配した大英帝国のコントロール下にあったともいえます。その後、第一次世界大戦で、敗北したドイツが、ナチス党の指導のもとで、大きなパワーを持ち、やがて、第二次世界大戦へとつき進んで行くのですが、当時は、世界のほとんどは植民地だったのです。その時代に、白人による世界の植民地化に唯一、抵抗していた有色人種の国家が、大日本帝国でした。ナチスドイツがポーランドに進攻し、第二次世界大戦がはじまり、大日本帝国は、旧ソ連と戦うか、アメリカと戦うかで、陸海軍が対立します。これが時代の因果なのです。なぜか、時代は戦争へと全世界を押し出して行きました。ここに、時代にも因果律が作用しているという、ひとつの証拠を見ることができると、その時代がつくる人間の精神についても、因果律がはたらいていることが理解できます。人間は、この運命から解放される方法を見付けなければなりません。

(つづく…)

二千二十二年 九月九日 積哲夫 記

<第一章>その六

第一章 試練は、学び、ということについて

その六)教育の因果

この日本国は、敗戦後、公職追放ということをGHQの命令で実行して、良心的な公務員や学者を、公の仕事から追い出しました。さらに、戦前には普通の書物であった出版物まで、この世から消すという、焚書も実行しました。それによって、ある特定のイデオロギーを持った人間が、日本国の官界と学界を牛耳ることになりました。日本人が、日本人の位置を不当に落としめるような、言論をしなければ、進歩的といわれない風潮も、そうした敗戦国の気分の中で強まって行きました。それが、敗戦後世代の学校教育の基本にあったとってもいいのです。戦前の日本が、何故、アメリカやヨーロッパに対抗できるような文化圏を短期的に生み出せたかの研究を、アメリカは研究済みで、日本人がその優れた資質を開花させないような教育の制度と、内容を押し付けることをした結果が、いまの日本国の停滞の原因となっている団塊の世代の価値観なのです。その彼らの意識を、コントロールしてきたのは、大手マスコミで、テレビと新聞しか見ない人間が、いまの日本の姿を形づくっています。このシステムは、歴史的に見れば、巨大な洗脳実験ともいえるものでした。そして、その結果として、その世代は信じ込ませることはできても、そのマイナス面が、次の世代、さらに、次の世代というように出ることを、示しました。それが、コモリやコボレの劇的増加の元にあるのです。

(つづく…)

二千二十二年 九月二日 積哲夫 記

<第一章>その五

第一章 試練は、学び、ということについて

その五)国家の因果

さて、親の因果が子に報い、の延長上に、民族の因果が今日の姿に現われているといえるのが、日本国の現状です。もともと、鎖国をして、精神的な安定を得ていた江戸幕府の時代が、黒船の来航から、わずか十五年で、明治維新に到るわけですが、その明治につくられた言葉が「国家」で、日本人は、国を家の集合体とすることを何の違和感もなく受け入れたのです。それが、アメリカとの戦争によって、せっかく、その国家観を自主的に憲法にしたものを捨てさせられ、アメリカの占領軍の法律の専門家ですらない人間を集めたチームが、書き上げた英語の憲法草案を、そのまま翻訳して、憲法として戴いた国家が、今の日本国です。この因果は、強烈です。軍国主義の日本が悪かった、平和憲法は日本が世界に誇るもの、そういった教育が戦後一貫して続けられてきました。その教育効果で、表面上は政府もその他のセクター、特にマスメディアは、半島の国家や大陸の国家に、謝罪する姿勢で保身をはかることができました。そこに、日本国民の心を病む、原因が隠されていることが、これから、解明されていくことになります。ひとりひとりの人間の精神的な成長過程において、重要なのは、自分の価値が認められることなのです。自分の価値を否定された子供の心は、病みます。国の価値を否定された国民の子供の心も病むのです。

(つづく…)

二千二十二年 八月二十六日 積哲夫 記

<第一章>その四

第一章 試練は、学び、ということについて

その四)親の因果

その昔の日本では、親の因果が子に報い、という言葉は普通に信じられていたはずです。それが、最近、復活したかのように、青少年の間で、親ガチャという言葉が普通に使われはじめました。いい親に当たるか、そうでないかで、子供の人生も決まってしまう、ということのようですが、それは、一面、真理ではあります。両親共に、頭も良く、容姿も良く、経済力にも恵まれた家に生まれた子供は、スタート地点から、多くの子供達とは違うということなのです。そういう発想は、親は選べない、と多くの子供達が思っているから生じたものです。しかし、ひとりひとりの人間のたましいの話となると、たましいは、親を選んで生まれてくる、という立場に、神理の光が当たることになります。つまり、人知では親は選べないというのが、いまの時代の知です。しかし、人間が知らない神知の世界では、親を選ぶことで、人生のテーマに向き合う、というストーリーになります。古い日本人が知っていた、親の因果を子供は背負って生まれているという出発点を持つと、悲しい人間の真実が見えてきます。どうやら、人間は、親の親、そのまた親、つまり、先祖の因果を背負っているという現実です。それは、頭で考えたことと、実際の行動の結果の両方の影響下にあり、そのデータを遺伝子も記録しているという可能性を否定できないということです。

(つづく…)

二千二十二年 八月十九日 積哲夫 記

<第一章>その三

第一章 試練は、学び、ということについて

その三)遺伝子と思考の関係

人知ではない領域からの情報として、人間の思考力は遺伝的に決まっているという話があります。つまり、モノゴトの本質を見極めるための思考力は、遺伝子レベルの情報の中に組み込まれていると考えられるのです。そして、その思考力を育てるものが、言葉というものです。言葉なしでも、数学的に考えるということなら、数式でもよさそうなものですが、それでは、自分と他者の区別ができないという印象があります。もっというなら、人間の場合、自分と他者との関係性にこそ、思考系は働くようにつくられていると見ることができるのです。幼い頃は、母の愛情を最大限に受け、青春期に到れば、恋愛の対象の人間に注目され、社会に出れば、仕事において良好な人間関係をつくり、家族ができたら、そのひとりひとりの幸福を願う…。それが普通で、そこには、愛情や感情という人間的欲求の先にある波動的情緒を安定させるために、人間は考えて行動するというプログラムが存在しているのです。つまり、自分と他者の波動的な調和なしに、人間の思考力は成長しないということです。良質な愛情に育まれた子供の脳内では、こうした自己と他者の関係性の基本が、愛という波動として定着します。ここが人間性というものの出発点なのです。

(つづく…)

二千二十二年 八月十二日 積哲夫 記

<第一章>その二

第一章 試練は、学び、ということについて

その二)脳内物質と気分の関係

気分や感情も、人間の脳内でつくり出される物質によって、コントロールされていることは知られています。では、その人間の気持ちを、高めたり沈めたりしている刺激とは、何なのでしょう。ほとんどの人間は、まだ、外部からの人間的な刺激、それは、悪意ある言葉だったり、直接間接の暴力だと直観的には、知っています。ところが、同じような刺激でも、ある人間には、ほとんど影響がなく、別な人間には、破滅的な心理状況を生み出してしまうことがあります。それを個性というのは簡単ですが、そうした心理的反応が、たましい、という現行の科学では、まだ知られていない領域にある何らかのプログラムによって、惹起されているとしたら、そのことの奥に人生のテーマが隠れていると考えることができます。
今日的な大脳生理学では、こうしたたましいのプログラムという領域にアプローチすることはできないのです。人間の身体というものは、生命のある間だけ機能するものですが、その生命の目的とは何かというところに視点を置くことができれば、気分の浮き沈みや、感情の起伏の意味や役割にも光が当たることになるはずです。
引きコモリや落ちコボレが、大量に生まれている理由も、その先に見えてきます。結論から先にいってしまうと、コモリもコボレも、たましいが家出をしている状態ということです。

(つづく…)

二千二十二年 八月五日 積哲夫 記

<第一章>その一

第一章 試練は、学び、ということについて

その一)人間は内向的が普通

引きコモリや、落ちコボレになる人間のほとんどは、一般的に内向的といわれる性格です。友人や世の中と、普通に接することが、難しい、といってもいいのです。そういう性格の人間は、外向的になろうとして、ほとんど失敗します。人間としての出発点として、社会性をどのように獲得するのかは、きわめて重大な問題なのですが、いまある社会の価値観やルールを、全面的に肯定した立場からのスタートは、あり得ないのです。過去においても、これからの人の世においても、さまざまな不平等や不条理が、存在することを考えれば、ひとりひとりの人間の向き合うべきテーマは、生まれた時から違うのです。そのテーマに向き合うために、人間は生まれてきたのだということを、生まれてから一度でも、親が子供に伝えていれば、コモリやコボレになる可能性は、大幅に減少するはずです。なぜなら、テーマを知らずとも、人生にテーマがあるはずだ、ということを知っているからです。そのテーマを知るためには、どんな子供であれ、自分の内側に目を向けることになります。自分の内部にその回答があることを、本能的に知っているために、人間は本来、内向的であるのが普通なのです。

(つづく…)

二千二十二年 七月二十九日 積哲夫 記