<第四章>その五

第四章 宇宙は神の揺籃ということ

その五)無神論の終わりと宇宙

科学というものは、一神教、さらにいうならその中のキリスト教という宗教が想定した神を、発見する、または証明するために、生まれたものでした。その科学が発展した結果として、どうやら、この宇宙には、宗教が想定した造物主のような存在は、いないらしいという認識が広がり、そこから、無神論は勢いを増すことになりました。それを助長したのが、科学という言葉を利用したマルクスの唯物論で、科学的発展の先にある共産主義社会という、人間が主役の無神論の宗教のようなものが生まれることになりました。その前にあった資本主義というイズム、その出発点はキリスト教の思想でしたが、ダーウィンの進化論という、当時、科学的とされた知識と出会うことで、マネーの世界も人間の世界も、弱肉強食というテーマで長い期間、動くことになってしまうのです。共産主義は、ソ連邦の実験の失敗で、一時、退潮したように見えますが、資本主義社会の背後にも、この共産主義的イデオロギーで、地球全体をコントロールできると信じる人間グループがいて、その動きは、いまも続いています。しかし、この宇宙は無神論で説明できる宇宙ではないことに、いまの最先端の科学は気付きつつあります。そのきっかけは素粒子というミクロの世界ですが、そこでは、人間の意識という人間がまだ正しくは知らないエネルギーの作用が認められたからでした。

(つづく…)

二千二十三年 三月二十四日 積哲夫 記

<第四章>その四

第四章 宇宙は神の揺籃ということ

その四)宗教の終わりと宇宙

人間は、ミクロコスモスという知識は古代からありましたが、イエスの十字架に象徴される聖書の時代は、人間は、わたしは妬むものである、と宣言している神の問題を解決するための容器と位置づけられたのです。これは、地球との契約でもあり、聖書の神の問題は、同時に、宗教の問題として、人間の歴史を形成することとなりました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、もともと、ひとつの神から生まれた宗教で、この一神教の問題が、約二千年に渡って、人間の意識活動の背後にあったエネルギーの供給源でした。仏教の出発点は、一神教とは別でしたが、仏教も宗教化する過程で、キリスト教の教えを、その内部に吸収し、やがて救世主のようなものが出て、人間は救われるという道を示すことになりました。それは、開祖の到達点とは別な教えで、その出発点にあったほとんど哲学的な思索の態度も、仏像をつくり寺院を建立するという宗教教団化するのも、一神教の宗教エネルギーの影響でのものと考えられます。この宗教の時代が終わらなければ、正しくは一神教の神の限界を超えなければ、人間の知は、その限界の内部に閉ざされ続けるという意識が宇宙の大きさを規定することを見抜いたのが、仏教の開祖だったのですが、それを達成したのが、「最終知識」に続く、光文書というものの時代だったのです。

(つづく…)

二千二十三年 三月十七日 積哲夫 記

<第四章>その三

第四章 宇宙は神の揺籃ということ

その三)「最終知識」と宇宙

「最終知識」という書があります。この書がテーマとしているのは、人知と神知の融合ということです。この書が、基本的には二十世紀中に完成したことで、地球上での神と人間の歴史には、ひとつのベクトルが宿り、宗教の時代が終わった後に、神と人間の問題は、どんどん、ステージを拡大して人間精神と宇宙というものの関係性にまで拡大することが決まりました。宇宙と神と人間が二十一世紀のテーマとなることがはっきりしたのです。この書の存在目的は、この物質的宇宙に先立つものが、精神的宇宙だと宣言するところにあります。また、神の謎、または、神秘という言葉で示される神の秘密を知る道の用意が、長い時間をかけて、この日本列島でなされてきたことを神や神々の言葉と、それを受けた生きている人間の言葉で、記録した、歴史上はじめての、神と人間の共著というべき書なのです。この書の中には、宇宙空間で思考するブッダと、著者が、出会い、ブッダの到達点を教えられるシーンがあります。現在の地球人、とくに、いまこれを読んでいる読者は、このブッダの到達点の知からの出発ということが可能になっているということです。知識というものは、長い間、過去の記録の中に蓄積されているものだと信じられてきましたが、人間の知識の多くは、過去の記憶ではなく、その時代の時空にある精神的エネルギーの場から供給されてきたという、知の本質も、その書で伝えられています。

(つづく…)

二千二十三年 三月十日 積哲夫 記

<第四章>その二

第四章 宇宙は神の揺籃ということ

その二)ブッダと宇宙

人間が意識することで、この世が現実化しているかもしれない、ということに、はじめて気付いたのが、ブッダと呼ばれる人でした。このブッダの到達点に、改めて、人間の科学というものが近付いたのが、現在の地球の知識水準です。モノや意識があるということは、そのもとに、テーマ、または、カルマというものがあると考えることができるという知にブッダは到り、時間と物質というものが存在するこの宇宙の存在そのものと、自分の存在の間に同質のものがあると発見したのだといえます。いま生きている人間は、自分の人生に、この地点から挑むことができるという幸運に恵まれています。時間と物質の関係性が解明されれば、人知は、宇宙の存在そのものも解明することになるのでしょう。ここで、この宇宙を考える前に、人間を生存させている、この地球にも、意識のようなものが、あるのか、というところにまで興味の対象を向けると、日本の神話の神々が、太陽であったり、月であったりして、地球の大地や海を主宰する人格神が伝えられていることに気付きます。つまり、地球にも太陽や月や、その他の火星や土星、木星などの星々にも神が宿る、または、神そのものとする物語が地上に置かれていたのです。この太陽系という地球を含む、星々のグループが、ひとつの宇宙船のように、宇宙空間を旅しているという姿は、地球に意識があれば、その他の天体にも意識があると考えることを許容します。宇宙に出たブッダの意識はそこまでは知っていたようなのです。

(つづく…)

二千二十三年 三月三日 積哲夫 記

<第四章>その一

第四章 宇宙は神の揺籃ということ

その一)人間の意識と宇宙

ほとんどの神話は、この物質世界と人間を作ったのは、神ということを伝えています。そして、人間の意識は、神に向かうことになります。その神というものを証明するための手段だと考えられたのがはじめの頃の科学でした。ところが、科学的探究をすればする程、神は人知から遠ざかり、どうやら、この物質宇宙の中には神はいないということに人間は気付くことになります。そこから生まれたのが、唯物論で、その立場から、この宇宙を説明した方が、分かり易いため、人間の宇宙観の主流となりました。科学が、物質を突き詰めていった結果として、素粒子を研究してみると、そこには光の速度を超えて、情報を共有する量子という存在があり、これが、現在では物質の最小単位とされていますが、その振る舞いから、マクロな宇宙の正体も推測できるとされています。物質のミクロコスモスは、マクロコスモスの情報を共有している可能性があるということです。すると、神話的世界のマクロコスモスと、ミクロコスモスとしての人間意識にも、同様の関係性を推定することが可能になります。つまり、人間意識があるのだから、宇宙意識というものもある可能性が高いということです。その意識とは、一種の波動なのです。それが宇宙を知る入口になるとしたら、人間の存在は宇宙の目的に重なります。

(つづく…)

二千二十三年 二月二十四日 積哲夫 記

<第三章>その十

第三章 人間は審判の容器ということ

その十)仏教、一神教、科学という宇宙認識

量子論が出て、宇宙への認識は、約二千五百年前にブッダと呼ばれることになる人間の到達点が、それなりに正しかったらしい、と推測できるようになりました。人間の意識が、宇宙を正しく認識できるようになった後に、イエスの十字架という事件が起き、一神教の時代に突入します。そして、その一神教から出た科学というものが、一神教が生み出した全知全能の神というものを否定して、人間の世界は無神論のイデオロギーというもので運営されることになったのです。二十世紀までの人知では、このまま、この宇宙には神の座はないものだと考えるのが普通だったのですが、物質が、観察者としての人間の意識を感知して、姿を変えるという観測結果の前に、一神教の神ではない、この宇宙のエネルギーのもとのもとたるものが意識のようなものを持つことを否定できなくなったのです。これがミクロをつき詰めていった素粒子論の立場で、その先には、宇宙の開闢の前というものまで考えようとする人間意識の拡大があります。この一連の流れを、あっさりと説明してしまったのが、「最終知識」という書であり、現行の人間中心の宇宙は、人間のたましいのもとたる神の物語を完成させるステージとして、用意されたものだということになります。その一神教の神の物語が終わることで、宇宙は本当の姿を現すことが可能になるのです。

(つづく…)

二千二十三年 二月十七日 積哲夫 記

<第三章>その九

第三章 人間は審判の容器ということ

その九)人間意識の宇宙

動物の脳は、知らないものを認識することはできません。見えないものはないという行動の典型が、危機に遭遇した時のダチョウの対応で、頭を穴に突っ込んで何も見ないようにするというものです。人間の脳の反応も、これと同じで、対処できない問題に出会うと、思考を停止します。この人間の無反応化の典型が、スピリチュアルなエネルギーへの対応で、霊感のある人にとって霊界は認識対象ですが、それがない人にとっては認識の対象外で、それはないものと判断されます。もし、人間が古くから伝えられてきたような、ミクロコスモスであるならば、人間の意識にマクロコスモスの情報が投影されない限り、正しいミクロコスモスとはいえません。そして、人間の意識は、宗教と科学の時代を経て、自分達がほとんど何も知らないことを知る、というギリシアのソクラテスと同じ所に帰ったというのが、いまの人間の意識と宇宙の関係なのです。95パーセント以上のことを知らない宇宙を投影された人間という容器で、ほんとうに審判というものが起きるのか。そういう問いに、これから人間は向き合うことになるのですが、その答えは、精神学の立場ではすでに出ています。科学が、その限界を知り、人間の意識が改めて神というか審判を希求する方向に向かえば、それは起きるのです。そこには量子論と人間の認識の出会いがあるといえばいいのでしょう。

(つづく…)

二千二十三年 二月十日 積哲夫 記

<第三章>その八

第三章 人間は審判の容器ということ

その八)非物質の宇宙

ミクロの世界で、素粒子の振舞いを人間が観察して、この宇宙のことを理解、または、解明したと考えたとしても、それは、この物質宇宙が、人間の意識に見せるひとつの顔に過ぎないのかも知れません。この宇宙は、物質と非物質によって構成され、人間が知るのは、その質量全体の約五パーセントに過ぎないという問題が、そこに横たわることになります。さらに、その先では、この宇宙の中にいる人間には、この宇宙のはじまりの前も、はじまりの後も、知ることはできない、ということに、人間の意識は満足できるか、というところに到ります。ここまで来ると、人間が神について考え続けてきた歴史にも、相応の意味があることが理解できるようになります。人間は神を証明しようとして、あるいは、神を発見しようとして、科学というものをスタートさせましたが、今日までのその歴史は、神というものを見失っただけかも知れないということです。つまり、現行科学の限界は、人間の現在の意識の限界を超えない、という単純な結論に到ります。そして、どうやら、その人間の意識の限界というものが、人間のたましいのルーツとなっている、宗教の神というものに規定されていると推測できるところに、やっと科学的人知は到ったということです。その先の領域の知に到りたいならば、宗教の神を超えたところに、人間の意識が到らねばなりません。

(つづく…)

二千二十三年 二月三日 積哲夫 記

<第三章>その七

第三章 人間は審判の容器ということ

その七)ひも理論の宇宙

この宇宙とは何なのか。それを考え続けてきた人間が、いま、到達しているのは、十一次元にある振動する「ひも」のようなもので、この世の物質は形づくられているという理論です。まだ、そうだとは決まっていませんが、可能性は高いと考えられているようです。ここでいわれている十一次元という世界を、普通の人間はイメージすることさえできません。しかし、この宇宙に人間原理が存在するのだとすると、この十一次元を頭の中でイメージできるような人間がやがて生まれて、そのイメージを人間界に伝達する日が来ることになるはずです。意識化され、認識されるということは、そういうことだからです。スピリチュアルなことに興味のある人間の多くは、この次元という話で、精神世界を理解しようとします。それが、なぜなのかは、やがて解明されるでしょうが、神が高次元なところに存在するという思い込みが、人間にはあるということです。つまり、この宇宙や物質の本質を追求していく先に、つまり、言葉でいうと高次元な領域に、神や神々の領域があるだろう、という本能のようなものが人間にはあるということです。それを、冷静に考えてみると、人間は宇宙のことを知りたがる、この宇宙には人間と同じ宇宙のことを知りたいというベクトルが宿っているということです。

(つづく…)

二千二十三年 一月二十七日 積哲夫 記

<第三章>その六

第三章 人間は審判の容器ということ

その六)宇宙の人間原理

この宇宙を説明するために、物理学の世界では、人間原理という言葉が使われることがあります。人間の存在に適合する宇宙の仕組みを、人間的にというか、人間の科学で考えると、そうした原理に行き着くということです。それは、素粒子の世界で有名な光のスリット実験で示されたように、観察者としての人間の存在があると、光は粒子の顔を見せ、人間の存在を感じないと、光は波として振舞うのは、何故かと考えた、ひとつの到達点なのかも知れません。つまり、人間の知識というものは、人間の存在を、前提にした物質というものが見せる姿しか、知ることができないのです。では、光という粒子でもあり波でもあるものが、観察者としての人間存在を、どのように感知しているかというと、まだ、人間は知る段階に到っていませんが、そこには、何らかの情報の受け渡しがあるはずだということになります。また、この情報伝達は、光の速度より早いことは数々の事例で明らかなことから、光の速度より早いものは存在しないという、物理学の知識もそこには適用されない領域ということになります。これを説明するためには、何かを認識する意識という人間がつくり出すエネルギーに、この宇宙の素粒子の秘密を解き明かす情報が含まれていると考えるしかなくなるのです。すると、この宇宙の人間原理というのは、案外、宇宙の本質に近づくアプローチかも知れないということになります。

(つづく…)

二千二十三年 一月二十日 積哲夫 記