<第一章>その二

第一章 試練は、学び、ということについて

その二)脳内物質と気分の関係
気分や感情も、人間の脳内でつくり出される物質によって、コントロールされていることは知られています。では、その人間の気持ちを、高めたり沈めたりしている刺激とは、何なのでしょう。ほとんどの人間は、まだ、外部からの人間的な刺激、それは、悪意ある言葉だったり、直接間接の暴力だと直観的には、知っています。ところが、同じような刺激でも、ある人間には、ほとんど影響がなく、別な人間には、破滅的な心理状況を生み出してしまうことがあります。それを個性というのは簡単ですが、そうした心理的反応が、たましい、という現行の科学では、まだ知られていない領域にある何らかのプログラムによって、惹起されているとしたら、そのことの奥に人生のテーマが隠れていると考えることができます。
今日的な大脳生理学では、こうしたたましいのプログラムという領域にアプローチすることはできないのです。人間の身体というものは、生命のある間だけ機能するものですが、その生命の目的とは何かというところに視点を置くことができれば、気分の浮き沈みや、感情の起伏の意味や役割にも光が当たることになるはずです。
引きコモリや落ちコボレが、大量に生まれている理由も、その先に見えてきます。結論から先にいってしまうと、コモリもコボレも、たましいが家出をしている状態ということです。

(つづく…)

二千二十二年 八月五日 積哲夫 記

<第一章>その一

第一章 試練は、学び、ということについて

その一)人間は内向的が普通
引きコモリや、落ちコボレになる人間のほとんどは、一般的に内向的といわれる性格です。友人や世の中と、普通に接することが、難しい、といってもいいのです。そういう性格の人間は、外向的になろうとして、ほとんど失敗します。人間としての出発点として、社会性をどのように獲得するのかは、きわめて重大な問題なのですが、いまある社会の価値観やルールを、全面的に肯定した立場からのスタートは、あり得ないのです。過去においても、これからの人の世においても、さまざまな不平等や不条理が、存在することを考えれば、ひとりひとりの人間の向き合うべきテーマは、生まれた時から違うのです。そのテーマに向き合うために、人間は生まれてきたのだということを、生まれてから一度でも、親が子供に伝えていれば、コモリやコボレになる可能性は、大幅に減少するはずです。なぜなら、テーマを知らずとも、人生にテーマがあるはずだ、ということを知っているからです。そのテーマを知るためには、どんな子供であれ、自分の内側に目を向けることになります。自分の内部にその回答があることを、本能的に知っているために、人間は本来、内向的であるのが普通なのです。

(つづく…)

二千二十二年 七月二十九日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉10

言葉になっていないエネルギーが渦巻く世界の中に閉ざされて、そこで、じっと耐えながら、それを言語化していく作業に、はじめにあった名前は、文学でした。ところが、ある日、突然、聖書のあの言葉が閃光のように脳につき刺さったのです。『言葉は神なり…』ヨハネ福音書の冒頭の一節です。はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、と続いて、その言葉がきますが、たぶん、それが、私の人生のテーマだと、その瞬間、ある種の波動に包まれて、理解したのでした。もし、この啓示とでもいうべきものがなければ、私は言葉で食べていく仕事をすることにはならなかったでしょう。体内には、暗くて重たいものを抱えたままではありましたが、生きるために、食べるために、大阪万博の年に、まだ、十九歳ではありましたが、当時、流行しはじめていた広告業界に身を置いて、コピーライターという仕事に就いたのでした。父親が死んだことで、すでに、兄も働いていましたし、私も、大学へ行くよりは、働くという道を選んだのは自然だったのでしょう。要するに、引きこもりになりたくても、なれない状況があって、運命のいたずらというより、天の配剤で、日本語の言葉を使うという仕事を得たのです。この結果として、ある日、神のコピーライターとして、精神界の情報伝達を担う仕事の場へと引き出されました。こうして、「最終知識」の著者はつくられたのです。

(つづく…)

二千二十二年 七月二十二日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉9

現在の科学では、自ら命を絶つ、そういう行動に人間を向かわせることを誰もが納得できるように説明することはできません。私の場合は、暗黒の底で、自分の内部を観察し続けることで、死への誘惑をする言葉が、どのようにして頭の中でくり返されるようになるのかを知ってしまったのです。それに気付いた時、これを人の世に知らせることが必要だと思ったのです。当時の知識で、それを伝える手段として思い浮かぶものといえば、詩であり、エッセイであり、小説といった文学でした。ところが、その頃の私の頭の中にある日本語では、三島由紀夫のように、自死に近づくものが文学性の高いものとして、位置づけられるという不幸な宿命を背負っていたのです。三島由紀夫は私小説を好みませんでした。自分の暗い情熱を文字に託して、他者の共感を呼ぶような、女々しい小説作法である私小説は、日本にのみ存在する文学形式ですが、それによって作家は生きることができるのです。それは日本文化の到達点のひとつかも知れませんが、どうやら自分の生きる道ではない、と青春期の私は考えたようなのです。しかし、たった一言で、人間を死に追い込むほどのパワーを持つ言葉を使ってしか、考えることのできない人間存在とは何か、というテーマがそこに見えていました。

(つづく…)

二千二十二年 七月十五日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉8

父の死によって、積賢治少尉と共に戦った多くの日本兵の霊が、その小宇宙の中の居場所を失って、息子の体内に移行したと想像してみてください。まだ十五歳の少年は、突然、死者の世界の波動の中に捕われたのです。何だか、いつも、死のことを思うし、父の死で自分の未来も黒く塗りつぶされた気になる、うつ的な気質は遺伝するらしいことも調べて、自分も自殺かな、と思う…。そんな時間が長く続いたので、引きこもりたい人間や、落ちこぼれていく人間の脳内で起こる現象の原因に、霊的なエネルギーが大いに関係していることは、たぶん、それなりに理解していたのでしょう。人間世界に、その知識があるのかと、あちこち調べて、宗教やら、哲学やら、唯物論まで、本は読んでみたものの、どこにも知りたいことのデータはなく、当時の少年に生きる力を与えてくれたのは、あのベートーベンの交響曲や四重奏でした。後の作曲家の多くが感情的なのに、それらは論理的に聞えたのです。その頃は、頭の中に死の誘惑が生じはじめると、それと戦うためにベートーベンを聞いていたような気がします。そういう強さを見つけられないと、脱出できないほど深い闇が、そこには広がっていました。

(つづく…)

二千二十二年 七月八日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉7

奥崎謙三は、ニューギニア戦線から九死に一生を得て帰還した人間です。私の父親の積賢治は、沖縄戦で、負傷しながらも生き残った人間でした。生前の父は、沖縄戦についてほとんど語ることをしませんでしたが、その軍歴は調べることはできます。それによると、沖縄を守るために編成された第三十二軍に中国大陸から編入された第六十二師団の独立歩兵第十四大隊という部隊の第三中隊に属する小隊長として、積賢治の名前があります。この部隊は、沖縄上陸のアメリカ軍の進攻を遅らせるために戦ったことで有名な賀谷中佐の指揮する独立歩兵第十二大隊と共に、沖縄戦のはじめから終りまでを最前線で戦い続けたのです。あの沖縄戦は、軍事的に見れば、その前のペリリュー島や硫黄島と同じく、アメリカ軍に対して、日本軍というより、日本兵というものに決定的な刷り込みをしたと考えられています。それは、二度と日本兵とは戦いたくないという、ある種の畏敬の念といってもいいものでしょう。それが、占領軍による日本支配が長く続いた最大の理由だということに、私が気付いたのは、二十一世紀に入ってからでした。恐怖は心を閉ざし、思考を停止させます。それは、人間も国家というものにも共通する宿命なのです。

(つづく…)

二千二十二年 七月一日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉6

中学一年の三学期から、卒業までを広島で過した後、父の大阪刑務所への転勤に伴って、大阪は堺に転居して、今度は大阪弁に遭遇することになりました。私を指さして、「自分な」という、その指の向きが逆ではないかと思ったことは、いまでも忘れられません。大阪では、「君」と呼ぶところを、「自分」と呼ぶのです。その高校一年の夏休みに、転勤して間もない父が、うつ病で自殺しました。病院の七階からの飛び降り自殺でした。その前にも、入院中に、首吊り自殺をはかったことがあり、見舞いに行った少年の目にも、その首についた細いロープの傷痕は痛々しいものでした。なぜ、大阪刑務所に転勤先が変わったことで、父が自殺したのか。長い間、謎でした。それが、ああ、これなんだと突然、理解できたのが、「ヤマザキ、天皇を撃て」の奥崎謙三が、出ていたドキュメンタリー映画を見た時でした。天皇パチンコ事件で有名な奥崎謙三は、日本兵が日本兵を食べたとされるニューギニア戦線の生き残りで、当時、大阪刑務所の受刑者だったのです。映画で、その奥崎が出していた波動こそ、父の死で、私が受け継いでしまったものに含まれていたものだったからです。「シャムは極楽、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア」といわれた、あの戦線の記憶です。

(つづく…)

二千二十二年 六月二十四日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉5

そんなこんなで、小学校は時々、不登校だったものの友達も増えて卒業。当時、住んでいたのは、元の東京拘置所官舎。あの東京裁判の死刑執行が行なわれた巣鴨プリズンが返還されて、職員の官舎なども整備されていたタイミングで、父親が、法務省の本省務めになったためでした。それが、中学一年の二学期末に、その父が、突然、広島拘置所の所長として、転勤することになったのです。普通、公務員に、そんな移動は起きないのですが、その背景には、後に映画にもなるヤクザの広島抗争があり、拘置所内でも、大不祥事が進行していたのでした。現実に、父は、命の危険にもさらされたようですが、任期中に、秩序は回復。次は、大阪刑務所に転勤ということになりました。この広島転勤で、はじめての広島弁に遭遇、自分のことをボクという東京っ子が、どんな目に遭うかは分りますよね。さらに、東京で行っていた中学は、あまりレベルが高くなく、広島に行ったら、教科書も違う、各教科の進捗もスゴくて、完全に落ちこぼれ化したのでした。青少年にとっては、こうした環境の激変というのは、引きこもりや、落ちこぼれのトリガーになるということを、イヤというほど体験させられたということです。

(つづく…)

二千二十二年 六月十七日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉4

そのことが、母親にとってはショックだったのか、面白がっていたのか、この小学一年の通信簿を大切に取っていたので、中学生ぐらいの時に見せられました。そこには、教師のコメントとして、「授業中、窓の外を見ていることが多いようです」だったかな、そんな風な子だったことだけは憶えています。当然、学校は好きではなく、集団行動も苦手、朝礼なんかではしょっちゅう、貧血で倒れる、まあ、そんな子供でした。

学校へ行く前になると、頭痛を起こし、休んでもいいといわれると、午後ぐらいになると、元気になり、一人遊びをしているので、家族からは、仮病を疑われていたのです。ただ、当人は頭痛になると吐き気もひどくなり、顔も青白くなるという、現象に、自分は病気だと信じていたりします。それを心配した、父親が東大病院に行かせて、いろいろテストされて出た結果は、自律神経失調症。当人にとって嫌なことをやらされると、発症するらしい、と家族は理解したようですが、小児ガンのような病気ではないと安心したようです。それで、当人は、たぶん自分は大人になるまでに死んでしまうのだろうと思っていたのです。カワイイもんです。

(つづく…)

二千二十二年 六月十日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉3

その堂々めぐりの原因は、と自分の人生、とくに幼い頃の記憶をまさぐると、出てくる、出てくる、敏感過ぎた自分のイヤな記憶。実は、私は幼稚園に行けませんでした。理由は、母親と共に見学に行った幼稚園で、たぶん年上の男の子に、面と向って、「変なヤツ。オマエなんかくるな」といわれ、イジメの予感で、イヤになり、幼稚園の送迎バスが来た朝に、「イヤだ、イヤだ、行きたくない」と柱につかまって抵抗すること、数日、親もあきらめたという次第。早生まれだったので、ちょっと小さかったことと、人混みに出ると、それだけで、激しい頭痛に襲われ、顔面蒼白となることをくり返していて、弱い子だったことも親をあきらめさせる原因になったことは確かでしょう。そして、小学校、正装した母親に連れられて、校門を入ると、新入学の名簿が、各組ごとに貼り出されていたのですが、どこを見ても、ボクの名前がない。「アラ、大変だわ」という母親の手を引っ張って、「帰ろうよ、ココじゃないんだよ」といってみたのです。当然、無視され、学校側がどこかの組に名を書き込むのを見ていたのですが、傷ついたというより、恥かしさでいっぱいでした。幼稚園にも行かず、入学式もこんなスタートですから、小学校の一年間は、ほとんど、何も記憶がないのです。ハ、ハ、ハ。

(つづく…)

二千二十二年 六月三日 積哲夫 記