第二章<その九>

第二章 意識は波動ということ

その九)岩石と意識

日本列島には古来、磐座信仰というものが神道として存在して、そこで信仰の対象となる巨岩や巨石は、神々が降りる場として、認識されてきました。神々が宿ることで、岩や石は意識化すると日本人は考えてきたようです、しかし、その認識とは別に、日本には生き石という言葉も伝えられてきており、その石は神々が降りる依り代というよりは、石そのものが意識体であるという感覚で使われてきました。つまり、しゃべる石です。植物に意識があるということは、植物が生物であるという点で受け入れられたとしても、無機物である石に、意識があるということは普通の人間には理解不能でしょう。しかし、現実に磐座は波動的なエネルギー体で、人間の側の意識の波動を磐座の波動に同調させることができれば、情報を受信することが可能になるのです。これが、古代の日本に自然発生していた神道の原型だと考えられます。たぶん、縄文時代の日本列島では、そうした人間と自然界との意識交流が普通に行われていたのです。それが、神話の時代になり、人格神としての神々が、人間と交流をはじめるようになった結果、岩や石が神々の依り代とされたというのが歴史的な事実でしょう。神々の多くが日本列島から役割を終えて去った今日、その岩や石のデータが意識というものであるという認識が、急速に広がることになるはずです。

(つづく…)

二千二十二年 十二月二日 積哲夫 記

第二章<その八>

第二章 意識は波動ということ

その八)植物と意識

地球上の生物の中で、いまのところ多くの人間が、意識を持たないだろうと考えているのが、植物です。人間の脳に当たる思考の座を持たないので、意識があるとは思えないのでしょう。ところが、この植物という存在は、人間の意識エネルギーに敏感に反応するという事象が報告されています。近年、無肥料、無農薬の作物づくりのひとつの方法として、確立されつつある、波動(意識)農法というものがありますが、その農法の特色は、人間と植物が意識を交流させるだけでなく、植物達が情報というか意識を通わせて、土地を肥えさせていくというところにあります。一般に雑草といわれるものにも役割があって、植物群が、その土地の環境整備を協力して行っているのを、人間は手助けするだけの農法ともいえます。波動(意識)農法のキャッチフレーズが、「天地の余剰をいただきます」ということでも分るように、植物群が、余剰生産をしてくれ、人間がその余剰をいただくなら、無肥料でも、無農薬でも、食糧生産は可能になる訳です。その農法が成立するためには、植物と意識を通わせられる人材が、必要なのです。このような視点から、植物にも意識はあると考えるのが、やがて、普通になる日が来ると予測できますが、その時までに、御神木といわれるような古い巨木との意識交流ができる人間が増えて、植物の波動が意識という理解が深まるはずです。

(つづく…)

二千二十二年 十一月二十五日 積哲夫 記

<第二章>その七

第二章 意識は波動ということ

その七)宇宙と意識

この地球上で、生命が生まれ、自分はどこから来て、どこへ行くのか、と考える人間が生まれたのは、偶然の結果と考えることが、正しいのかどうか。ほとんどの人間は、それが、偶然とする考え方には共感できないはずです。それは、人間のたましいの奥の奥にある意識化というベクトルが、直感として、この宇宙にも共通していると感じる何かを持っているためです。宗教の神は否定しても、人間の意識が、宇宙のはじまりから終りまでを知ろうとするベクトルの背後に、宇宙が自分は何者であるのか、というはじまりの時に刻印された思いのようなものは否定できないのです。そこまで到ると、この宇宙には、意識化するというベクトルがはじめから与えられている、ということになります。その出発点を受け入れると、この宇宙には、人間意識という、地球の人類に固有の意識のほかにも、別な意識エネルギーが存在していても不思議ではないということになります。それらの他の意識体と人類がコンタクトできていないということで、それらが存在しない、ということにはならないのです。そして、この宇宙に存在する意識体が、人間にコンタクトする条件というものを考えてみれば、答えは簡単なものになります。知るべき時が来るまで、それらは、隠される、ということです。

(つづく…)

二千二十二年 十一月十八日 積哲夫 記

<第二章>その六

第二章 意識は波動ということ

その六)意識はどこへ向く

人間の意識のルーツは、宗教が伝えるところの「神」というものだということが理解できると、地球上で、宗教的なエネルギーの噴出が歴史を形成してきた原動力ということにも納得がいきます。それとは別に、意識というものは、人間の中で、自分が何者か、と問い続けるベクトルを持っています。それは、自分がどこから来て、どこへ行くのか、という問いかけにもなります。その意識のベクトルがなければ、人間は科学的に宇宙の創成と、宇宙の終末を考えることもなかったともいえます。ここまでの論考で、はっきりするのは、どうやら、人間の意識のルーツにある「神」というものも、正しく自分は何者かを知らないのではないかという疑問です。とりあえず、人間という生物に宿った意識は、この宇宙がどのようにして生まれたのか、という疑問に向いて、いろいろな思考をくり返してきたという歴史があります。それは、唯一の神が、この宇宙を創造したとする一神教の立場の宇宙観とは、対立するもののようにも見えますが、科学的な宇宙創成でいうところのビッグバンは、はじまりがひとつの点です。その意味では、唯一の点から、宇宙は創造されたともいえ、そのトリガーを引いたのが、意志、または意識というものかも知れないと考えれば、対立点は消滅してしまうのです。

(つづく…)

二千二十二年 十一月十一日 積哲夫 記

<第二章>その五

第二章 意識は波動ということ

その五)人間意識のルーツ

現行人類は、神と人間が呼ぶ存在の意識エネルギー体の、内部構造を、投影された意識のモトを持って、生まれているというのが、精神学を人知に伝えた側の情報です。つまり、人間がたましいと呼んでいるものは、圧縮された神の情報系なのであり、それを成長させ理解できるデータに変換できるもの、と考えられるのです。その人間の最大の問題は、聖書の神が、「わたしは妬むものである」と語っているように、妬み深いという性格にあり、そのマイナスの特性を、人生の中で、くり返し体験し、落ちていくところにある闇を知ることでしか、人生、または自分の生まれた理由を発見できないところにあります。「苦しみ」からの解放が、神たる存在の最大のテーマであると、人間という容器の中で、ミクロな神的意識体が発見することが、現行人類の存在の目的だったといってもいいのです。歴史的に、このことに、はじめて気付いたのが、後にブッダと呼ばれるようになるインドのシャカ族の王子です。その人間であるシャカ族の王子に、インドの神々は、知っていることを教えるよう頼み、仏教というものが始まります。その出発点があるので、仏典には、人知の到達点だけでなく、過去の神知も含まれています。そして、その知の領域では、意識というものの重要性が、伝承されていたのです。

(つづく…)

二千二十二年 十一月四日 積哲夫 記

<第二章>その四

第二章 意識は波動ということ

その四)人間意識の謎

この宇宙には、意識エネルギーが満ちているというのが、精神学が到達している立場です。ところが、人間はこれまで、そうした知識を持たないまま、今日まで、来ています。例外的に、日本列島では、イワクラや御神木という意識体の存在を知る文明が育っていましたが、西洋文明至上主義の近現代史において、その記憶は無視されてきたのです。つまり、西洋文明による人間意識というものが、多くの人間に共有された結果、いまの人間は自分達以外の意識体とコンタクトする能力を失ったのです。これが、多分、一神教というものが地球にもたらした意識体のテーマというか、限界なのです。聖書の旧約の神が、自らを妬むものである、と宣言していることでわかるように、その神をルーツとする人間意識の根底には、妬むもの、という底意地の悪い思いや行動に人間を駆り立てる何かが、隠れていると考えればいいのです。この内なる闇に向き合うのが、人間が、人間として生まれている理由なのです。これを、克服した人間の意識は、その他の意識との交流チャンネルを持つようになっています。それが、本来の地球の生命から生まれた意識の方向性だと考えれば、いまある地球の文明は、その方向性を阻止したい何らかのエネルギー的な干渉を受けていると考えるべきだというところに到るはずです。そこに人間意識の謎があります。

(つづく…)

二千二十二年 十月二十八日 積哲夫 記

<第二章>その三

第二章 意識は波動ということ

その三)動物と意識

人間は、母の体内で、地球上の生命の進化をくり返すかのように成長するといわれています。つまり、魚類にはじまり、ほ乳類、そして、人間の形へとその形態を変えて、出産に到るのです。ここから推測できるのは、動物というものは、その生命反応としての意識を持つらしいということです。人間は、自分を含め、すべての人間に自分という意識があることを知っていますし、動物を飼ったことのある人間なら、すべての動物に、人間のような個性があり、意識があることも知っています。ペットの犬や猫と、人間は言葉でコミュニケートしていますが、その言葉をペットの犬や猫が理解しているように見えるのには、同じ進化系を辿ってきた結果だと考えることができます。こうして、生物界というものの頂点にいると信じている人間の姿を見て、これが、進化の究極にあると考えることには無理があると普通の人間ならば直感するはずなのです。そして、この知に到った時点で、いまの人間にとっての犬や猫のようなものが、古き神話で語られる原初の人間の姿ではないかという思いが、生じることになります。つまり、生命というものは、意識を成長させ、人間の意識も、まだ成長途中なもの、という考え方です。この視点では、人間の意識は、まだまだ、成長していく余地がある未完成のものということができるのです。

(つづく…)

二千二十二年 十月二十一日 積哲夫 記

<第二章>その二

第二章 意識は波動ということ

その二)意識とは何

人間界の知識で、意識とは何かという問題を語ると、この章の「意識は波動ということ」というテーマとは別の認識論の方へ、話が行く危険があるので、精神学の立場での、意識エネルギーの説明をします。精神学では、エネルギーは、意識のエネルギーだというところからスタートしています。
イメージ的にいうと、現行の宇宙は、正しく知ることのできないことへの強烈な怒りのエネルギーの暴発のようなものが起きて、開闢した、つまり、ビッグバンのようなことが生じたのかも知れないという情報が、波動的に残っているといえばいいのでしょうか。この波動的な記憶が、宇宙の中のすべてのものに、残存しているとすると、人間の意識活動が、自分はどこから来て、どこへ行くのか、というテーマを持つように、宇宙全体も、自分はどこから来て、どこへ行くのか、という意識を持つということが可能になります。つまり、マクロの宇宙の存在のテーマと、ミクロな小宇宙と呼ばれてきた人間の存在のテーマは、共通のものということです。この視点に立てば、宇宙にも意識があり、地球にも意識があり、地球上の海洋や大陸にも意識があり、身近な岩や川にも、意識というか、固有の波動があり、それらを統合した意識の流れのようなものが、時間として存在しているということになります。

(つづく…)

二千二十二年 十月十四日 積哲夫 記

<第二章>その一

第二章 意識は波動ということ

その一)たましいと意識

人間の精神活動というものは、いまのところの知識でいうなら、脳内の電気的な反応の結果ということになります。意識の座は脳でいいとしても、人間が心と呼ぶものの座は、普通の人間の直感としては、頭にではなく、胸にあるように感じているはずです。頭で考え、頭で思う、その時に電磁波を使っている訳ですから、思考とか感情とかは、波動ということもできます。人間が、深く悲しんだり、感動したり、という時に、胸のあたりからエネルギーが放出されていると感じるのは、胸のあたりに、そういうタイプの波動を出力するメカニズムが隠されているからと推測することが可能になります。また、人間が他人からの言葉のような波動的な影響で、つまり、ストレスというものを受けると、体温が変化したり、発汗や呼吸の乱れなどを生じるということもよく知られています。そういう視点で人間を見ると、人間というものの波動は全身から出力されているということになります。生物としての人間存在は、精神的な波動の出力器としての機能を持っていることになります。そして、自分ひとりだけが出力した、その波動エネルギーは、外部にも内部にも影響を与え、外に出たものは他人にも伝わり、内に向いたものは体内にある種の変化を生じさせることになります。

(つづく…)

二千二十二年 十月七日 積哲夫 記

<第一章>その十

第一章 試練は、学び、ということについて

その十)たましいの因果

いまある人間意識というものは、生まれる前にたましいの母体のようなものから、種を受け取って形成されたもの、と精神学では伝えています。つまり、肉体の形成には、卵子と精子が、精神の形成には、天と地の種子が授けられているという考え方です。これを受け入れると、人間の意識は、天の意識体ともコンタクトできるし、地の意識体ともコンタクトできるという、精神学が伝えている人間精神の可能性が理解できます。その人間のたましいに問題があって、人間の意識は、過去の因果律の中に封じ込められていると考えてみてください。それが、現行人類に課せられたカルマというものです。この問題に、先行して出会うために用意されたステージが、日本列島なのです。ところが、このたましいの問題に、いまの日本人が出会うためには、西欧文明、とくに一神教とその影響下で生まれた、さまざまな価値観、とくに唯物論と、そこに正当性を与えているように見える科学というものを、克服する必要があるのです。それはひとつの思い込みの宇宙といってもいいもので、そこに留まる限り、人間のたましいは、目的を見失います。人生は無目的となり、すべては偶然の産物となります。この意識の領域にいると、人間精神は内向する以外の道がなくなるのです。思考は停止しコモリ、コボレの世界に近づきます。

(つづく…)

二千二十二年 九月三十日 積哲夫 記