2020アーカイブ

通信-20年12月24日
Thursday, December 24, 2020, 13:52
(2020.12.24 am9:00~)

おつき合いをされている方の、
人格についての、不平不満を、
第三者の人物に、訴えておられますが、
では、何故、その問題のある人間と、
別れようと、しないのか

通信-20年12月24日

Thursday, December 24, 2020, 13:52
(2020.12.24 am9:00~)

おつき合いをされている方の、
人格についての、不平不満を、
第三者の人物に、訴えておられますが、
では、何故、その問題のある人間と、
別れようと、しないのか
他人の人格を変えたいという願いを
持ち続ける限り、その、ご自身がとらわれている
エネルギー層からの脱却は
難しいものとなるでしょう
人間と人間との間には、必ず、エネルギーの
相互作用と関与があり、
問題解決のための方法を考えるための
意識の層へと上がらない限り、
あなたと、そのパートナーの方との関係性というものは、
何ら解決の糸口を見つけることは
難しいものとなることでしょう
他人の問題点を責めたてて、“自分は何も悪くはない”と
言い続けている限りにおいて、
事態の終息(収束)は、もたらされることは無いのでしょう。
誰かが、がまんをすればよいという、お話なのではなく、
その問題点を解決するためには
一体、何が必要なのかを、他人に依存をするのではなく
自分の頭で、考える、という努力が必要になります。
“誰かに何かをどうにかしてもらう”という
短絡的な方法を選び続けている限り、
自らの意志と行動力というものは、
発動のしようが無いためだからです。
厳しい苦言を呈するようですが、
自らが、どのようなエネルギー層にとらわれているのかを、
「客観的に」観察をする必要があるのでしょう、
今日のところは以上です。

通信-20年11月5日

Friday, November 6, 2020, 15:40
(2020.11.5 pm10:00~)

今から14年前のある時に
ある種の引き金が引かれた、ということであり、
それは1万人もの人達を、どうやって
この地上から集めることが出来るのか、ということであり
ただでさえ無知な君達のような人間を
どのようにして 育てることが可能なのかという
ある種の実験のような事が、もたらされ、
そして委ねられたということであり、
期末試験のようなテストに合格が出来たもの、
というのは、ほんのひと握りの わずかな人員しか
残されなかった、ということなのです。
来たるべき時に用意されるはずであった、
このちにおいて はたらくべき人員というものが
これほどまでに数が少ないものであるということは
今さらながらに考えられないような事実では、あったけれども
途中でリタイアしながらも、自らの意志で
戻ることの出来たもの達もいれば、何かを
期待しながらも、その期待していたものを
得ることが出来ずに去っていったもの達もあり、
今さらながらにして、わたしにこの仕組みを授けた
存在の神謀というものが明らかにされた、のちの世において、
きみ達の手によって次の時代の何か、
そう、かくあるべきこの世の姿かたちというものを、
生み出してゆく意志のようなものが、求められている。
このクニの、つながりを持たされている、ある種の
関連性のある国々との国家間の地位的競争のようなものが
この先の地球という惑星内における地獄の様相をあらわにし、
のみ込まれ沈みゆくものがあり、あるものは沈没し、
そしてあるものは陸地へとたどり着き、そして
あるものは飛び降り自殺をもしかねないような、
狂気の沙汰の渦に、巻きこまれてゆくことになるのであろう。
あなたがたに託された未来は暗く、そして、
その暗くて希望の見い出せないような出発点からしか、
始めることは出来ない事に気が付かなければ、
あなたがたのたましいが、何を契約して、今、この時代に、
その場に存在をしているのかの解答を
自らの意識において見い出すことは不可能に近い
ものとなるのであろう。契約、という、そのひとつのことばの
意味するものが、どのようなものの存在のあり方を
あらわしているのか、つまり、あなたのたましい、というものが
何を契約して、このちにあらわれたのかを、自らに
問い直すべき時が、既に到来しているのであり、
どのような目的を持ち、何を遂行するために、このちに、
(この星に)エントリーをしたのかを自らのたまに問い直せ、
ということである。契約の履行が求められている、という
認識を持つことの出来ないものは、おこないの結果として
選り分けられてゆくということである。裁きは審判は
自らのそのうちで起きる(起こす)ものであり、それを自ら
欲しないものには、とうてい到達の出来ぬもので
あるからである。
(以上)

通信-20年8月15日

Tuesday, August 18, 2020, 11:57
(2020.8.15 am10~受) 

“刷新しなくてはならない”
これまでの古いやり方を捨てて
全て新しくしなければならない。
これまでのやり方で通っていたはずのもの、事、が
これからは全く通用しない時代が来ている(はじまった?)
このままでは これから先の時代に生きてはゆけない、
という危機感を抱いているものは、出来る限り、
早いうちから準備をすすめておいたほうがよい、ということ。
可能な限り、引き継がせておきたい、もの、事については
今のうちから整理をして、全て準備を整えておかなければ、
これから先の「来る」時代において、用意を始めておかないと、
もう、間に合わなくなるというおそれもある。
ただちに引き上げることが難しいもの、事に関しては、
出来るだけ早いうちから用意をしておかなくてはならない。
信号を受け取る事が出来たもの達は、ただちに、その用意を
はじめておきなさい、ということなのです。
ぼんやりと無気力に毎日を過ごしている間にも、
時間はどんどん経過をしてゆく、ということであり、
後のものが先になるという、そのことば通りの事が、
既にこの世においては もう始まっているということである。
“早く、用意をしなさい”、と、言い続けていても、
現実の世の中での行動を起こそうとしないものたちは、
「自らの意志と行動力」というものが、
はなから存在をしていないから(していないためだから)であり、
言われたこと、指示、指図をされたことにしか
行動が伴なわないもの達であるからに、ほかならない。
何の意図が、そこに起因しているのかを、自らの頭で考え 調べ、
どのようなものの操作が、このクニの上に生きる人間達の頭の中を
つくり変えてきたのかを知らない人間に、
原因と結果、その事による弊害、といった事実を知り得る事などは
不可能に近いということである。
今の自分の生活さえ平穏であればよい、自らの一族のみが平和で安寧に
暮らす事が出来ればよい、と信じて疑わない人間達に、
このクニの問題点を見つけ出し改変(編)してゆこうといった、
義と行動力といったものは、伴なうことは無い。
それぞれの個のにんげんの小宇宙の中に存在をする
“ある何ものか”、が、それを考えるということを、拒み続けているからである。
まともな思考能力を持つものの、足を引っ張るもの達が、
どの人間の小宇宙の中にも存在し、それぞれの存在が
自らの正当性というものを頭の中で主張し続けるということであり、
“それらを始末し処分をする”という行動を起こさないもの達は、
自らの正当性を主張し、思いつく限りの言い訳というものを編み出しては、
できない(やらない)理由というものを
産出(算出)し続けている、ということ。
正しくはたらくもの達の、足を引きたくないと思うのなら、
正しい知識と現実の史実というものを、
自らの努力において学ぶという事であり、知力や努力のない人間ほど、
思いつくままに言い訳や、愚痴や文句といった類のものを、
口から頭から身体から、排出をし続けているということである。
自らの意志と努力と判断、行動力といった基礎的なものが伴わないものたちは、
このようにして 後から猛スピードで走って来るものたちの弊害となり、
足を引くものとして 邪魔をしているという事に気が付かない振りをして、
障害物になる(なっている)という事である。
後から来る次の走者達に、たすきを渡すことの出来ないもの、とは、
このようなもの達のことであり、その弊害について、当然のことながら
自らの頭で考えることはない。
足手まといになりたくないのであれば、歴史の事実を調べて学ぶことであり、
正しい歴史として頭に植え付けられてきた内容が、
事実とは異なるものであるとしたら、その背後にどのような意図(糸)が
張り巡らされていたのかを、知る事である。
ここまで伝えてもなお、知らぬ存ぜぬというもの達の主張に耳を傾けるもの達は、
自らのおこないと、それに起因する何らかの教え、更には、そういった教えを
撒き続けた何ものか達の策略とともに、ひとまとまりのものとして、みなされ、
ある領域へと封印されることになるのであろう。
問題点が、何なのか、そこに、どういった策略が張り巡らされたのか、
何も調べずに、何も考える事もなく、その問題解決法を
考えることすら、しない(出来ない、やろうともしない)人間達に、
ここから先の未来について、考える事など、出来ないからである。
                               ~am11:10

通信-20年5月6日

Monday, May 11, 2020, 17:38
(2020.5.6 pm8:44~受) 

やるべきことが、あったから、
わざわざ、生まれてきたんだよね?
何か、しなくてはならないことが
あったから、わざわざ、今、
この時代に、おいて、
生まれてきたんだよね?
自分の担当の係、というものを、
早く発見することが出来たもの達から、
そのつど、その、あるべき場所へ
送り出されることになる、
ということなのです
ひとりひとりの役割は違い、
異なるものなので、
他の人と、自分を、比較することなど、
もっぱら、それは
不要なことなのです。
自分自身の、得意なことを生かし、
適任となるような任務を、まっとうし、
遂行をすれば良い、
ということなのです。
それぞれの得意分野を
活かして、それを活用すればよい、
という、お話なのであって、
“あなたが、あなたであるために”
異なる分野の業種のことに
手を出す必要など、はなから
存在をしていないのです
“これをしている時が幸せだ”
という分野のことを、活かしなさい、
という、とても、簡単で、
シンプルなお話でしか、ないのです。
他人の情報を見聞きして、
それを、“うらやましい”と
思っている限りにおいては、
あなたご自身の本来の
はたらきというものについて
道を見い出すことは、
難しいものと、なるのでしょう。
“裁きを、天に委ねよ”、という
ことばの意味を理解すると、
それまでの人間的人生とは異なった、
ものの見方が、出来るようになります。
自らの意識上における
様々な情報を、特に、冷静になって
よく、よく、見続ける、ということなのです
ご理解をして
いただけましたでしょうか、

通信-20年3月13日

Friday, March 13, 2020, 12:04
(2020.3.13 am9:15~受) 

(コロナウイルスが原因で)
世の中の人々が、殺気立っていて、
「不安や恐怖」というものに
その意識が占有されている。

思考停止のような状況に
近しいもので、
“未来のために、何かをクリエイトする”
という発想が
存在していない(皆無)という
状況下に、その意識活動が
置かれている、という状態。

判断力や、決断力の低下というものが、
この地球上に蔓延しており、
当然、このクニの状態が、
それを物語っている。

思考回路が開放型ではなく
閉鎖的状況下に置かれていて、
問題解決の為の最良策が何なのかの、
判断が出来ないという、
あるものの意図した通りの
世界的情勢のなかに置かれている
という事実に
気が付く事が出来ない。

外部から、この地球的な状況を
俯瞰して眺めることが出来ない限り、
我を忘れて、右往左往するだけの
時間的経過の中で、
人生という時間を費やすことになるという事に
気が付くことが出来ない限り
客観的な視点で、
この世界情勢を、冷静に見つめることは
不可能に近い。

あなた方に残された時間は短いと、
くり返し伝え続けている事の意味を
自らの頭で(脳で)考え続けない限り
解決の糸口を見つける事などは
難しいであろう、ということなのです
ご理解をして頂けましたでしょうか

(2020.3.13 am10受) 

他人に依存をして
何かを、どうにかしてもらおうとする前に
今、自分が、
何をするべきなのかを、
考えなさい、ということです

通信-20年2月10日

Friday, March 13, 2020, 12:02
(2020.2.10 am8~受) 

人間は、邪悪で残酷で
儚く、もろい。
“自分は正しく生きてきた” という
主張をするものほど、いとも簡単に
その存在の場を、明け渡してくれるというもの。
犯罪者のように、罪人のように、
ひどい過ちは犯してはきませんでした、
という主張を するものの心のどこかに、
自分は正しく生きてきたという主張を
死んでも手離したくない何ものかが
棲み憑いているということである
敬虔な信仰者、と言われているもの達ほど
簡単に、操作をされて
操られるということであり。
“その、指摘をされている事は、
まさか自分のことではあるまい”という、
ある種の自己肯定論を主張する
何ものかが、
その敬虔な信仰心を持っていると
(死ぬまで)思いたがっている何ものかの
心の隙間に、潜んでいるということである。
自分が正しく生きてきた、
自分は罪人ではない、
(むしろ被害者だ)という心の叫びを
手離したくはない何ものかが、
その人間存在のなかに居場所を持ち、
決してそこから離れようとはしないということに気が付けば、
何ものが、その人間の口を使用して、
その自己の正当性を主張しているのかを
冷静に判断をすることが
可能なはずである。
悪魔は人間の姿をしており、
いい人間のふりをしている
その人間存在の心の隙間に、得た棲み家を、
手離すことは無い、ということである。
悪魔の手先をするものは、自らが悪魔の手先として、
せっせとはたらいているという事に気付くこともなく、
その人物の生存期間の生存エネルギーを利用して
目的達成のために、
宿主の意識と身体を利用し続けるということであり
使われ利用をされたその人物が
その事実を知るよしもない
宿主として利用をされていた人間の主張は、
こうである
“何ものかに操作され動かされたのだから
自分は悪くはない”
というものである、この自分は悪くはないという主張を、
し続けていたい、というのが、
人間の性(さが)というものであり、
そのたましいが火にくべられる日が来るまで、
自分に時間は与えられていると
信じたがっている。
自らの暗黒面の淵を、
覗いて見ることをしたくはないもの達が
このような、ワナに、いとも簡単に引っかかり、
明け渡してくれる、ということである
“人の姿をしている”という事の、
解説の意味を、
ご理解して頂けましたでしょうか。

2019アーカイブ-1218-0711

通信-19年12月18日
Wednesday, December 18, 2019, 17:51
(2019.12.18 am9~受) 

(自分のところに)入ってきたものを、
“自分の意志で、始末をする”ことを
しない限り、“永遠の被害者”という意識が
その意識領域内において
占有することに、なります。

通信-19年12月18日

Wednesday, December 18, 2019, 17:51
(2019.12.18 am9~受) 

(自分のところに)入ってきたものを、
“自分の意志で、始末をする”ことを
しない限り、“永遠の被害者”という意識が
その意識領域内において
占有することに、なります。
入ってきた、何ものかにとらわれ、自らの健全な意識が、
そのエネルギーによって、そがれ、
自らの不幸のもとが、「誰かの」「何かの」せいである
という主張をし始めるものが、
その意識の中で、頭をもたげることになるのです。
たたかうべき相手、というものを、
自分の外部に設定し、その、見えない敵との
たたかいに疲れ果て、人間は、その健全な意識領域を、
何ものかのために、あけ渡してしまう、という事が起こるのです
たたかい続けて 疲れ果て、
自らを起爆させるためのスイッチを押した時、
人間は生きる屍としての人生を選択したことになります
冷静に観察をし続け、分析し、どのような手段や方法が、
その問題点の解決につながるのかを、
考え、考察するという事が、必要であり、
我を忘れて 危機感を抱き、パニック的症状下にある状況下では、
冷静な判断や解決への糸口のようなものを見つける事は、
とても難しいものとなることでしょう。
人間が、自らを、被害者の立場に置き、自分の不幸の原因を、
外部の何ものかに見い出そうとする限り、
そこには必ず、「自分は悪くはない」という主張が存在し、
その自らの意識領域のなかで、
犯人探しのような事をし始めようとする何ものかが、
居座り続けることになるのです。
主戦場は、ひとりひとりの人間の小宇宙内であることに
気が付いたものから、
自らのうちで始末をするという意志が、
その物語たる主人公になり得ることが出来るのです。
“やられっ放しで、被害者だ”という不平や不満が
まっ先に、その口をついて出て来る限り、
正しき 義のために、たたかい続けるものになる事は、
難しいことなのでしょう。
本当に強い意志を持ち続けることが可能であるならば、
不平や、不満、愚痴や文句といった類のことは、
その口をついて出てくるものではないからです。

通信-19年12月15日

Wednesday, December 18, 2019, 17:50
(2019.12.15 am10:45受) 

(何が、問題なのか)
“自分自身の問題点を
 自分以外の何ものかに
 解決してもらおうとすること”。

通信-19年10月17日

Wednesday, December 18, 2019, 17:47
(2019.10.17晩) 
————————————————————
何が正しいことで、何が偽物なのか、
情報社会に溢れているものの中から、
正しい情報を選び出すこと。
————————————————————
教科書に書かれている事が、ほんとうのことならば、
どうしてこの世は、今、こんなに危機であり、ある種のゆがみを感じてしまうのか。
そこに記されていることは、まことの真実であるのかどうかを、
自ら自身で検証をしてみる必要があるのかもしれない
————————————————————
じぶんが気分良く快適に、生きて死ぬだけの、存在ならば、
この今の混迷の時代において学ぶべきものが何なのかを、
見つけ出すことは相当に難しいものになるのだろう
————————————————————
今という非常に難しい時代を、わざわざ選んで生まれて来た事の意味と理由を
考えることが出来ないのなら、
どのような目的のために、はたらく事を所望して生まれてきたのかを
見い出す事は、難しいものとなるだろう。
————————————————————
生きる屍としての人生を、全うしたいのか、
ある種の明確な目的を持って、生まれてきたことを自覚するのか否か、
全人類に対してそれが問われているということなのだ。
————————————————————

通信-19年10月4日

Wednesday, October 9, 2019, 16:32
(2019.10.4 pm8:54受) 

生きて身体を
持っている間に、
やり遂げなくては
ならない事は、
何ですか、
それで、よかったのだと
納得するために
全うしなくては
ならなかったと 感じる事は、
何なのですか
生きて身体のある、ある限られた
時間軸のなかで、
どうしても、これをやらなければ
自分が生まれてきた理由を
見い出せない、と、思うことがあるのなら
それをやらずに この世を去る事は、
あなた方にとって、後悔のタネと
なることなのでしょう、
生きて身体のある間にしか
出来ない事が、あるはずです、
それを、自らの存在のなかから
探し出して下さい。
こたえは、その(あなたの)
存在のなかにしか、
置かれていない(用意がなされていない)
ものだからです。

通信-19年7月30日

Wednesday, July 31, 2019, 13:52
(2019.7.30 pm8:40~受) 

“どのような方であっても、
誠実に接しなさい”
というのが基本です。
相手によって態度を変えるのは、
自らの立ち位置を、相手に対して
誇示する、ということです。
それは、上から目線で
相手に対して
圧力をかける、ということです。
気に入らない相手を、
押し潰すように、
上から目線で、圧力をかける、
ということなのです。
人間が発するそれらのエネルギー
というものを、自分の立場を保持するために
意図的に使うもの、
“裁きは天に委ねなさい”という
言葉でしか、
それらのエネルギーを知るものに対しては、
告知がなされていないもの、
なのですが、
「何を今、学ばされているのか」を、
冷静な目で見続け、
考え続けることが、
あなた方に、求められています。
この先の、人類の未来に対して、
何が提示され、どのような
改変と行動が求められているのかを
客観的な視点で視ることが
求められて(要求されて)います。
ひとりひとりの個別の人間が、
自らの意識上において
それらのテーマとなるものを考え続けるために、
これらの課題が与えられているのだと
考える努力が、あなた方に対して
求められているのかもしれません。
以上が、理(ことわり)における、
助言とさせていただきます。
             (~pm8:52)

通信-19年7月11日

Wednesday, July 31, 2019, 13:50
(2019.7.11 am9~受) 

他人の持ち物をうらやましい、
と、思う前に、まず自分が何を持って
生まれて来たのかを考えるべきです
人の持ちものを横取りして
奪おうとすること、
それが、この地球における
人類という種の生き物が
長らくの間 し続けて来た、
カルマというものです
人から簒奪して、奪い取り
じぶんのものにすること、
にんげんという種の生き物は
そうやって、他者からものを奪い取り
自分のものにして所有し執着をして
生きてきた、生きもの、
自らのうちにある、本来の生きる目的に
気が付くこともなく、誰かの、何ものかの
何かを妬み、奪い取るために、
あれこれ画策をして、手に入れようとするもの、
あな、おそろしき生きものたち、
人を生かすために、はたらくのではなく
自らの利のことしか、頭にない、生き物
罪人の意識の、みじんもかけらもないものたちが、
そのようにして思念を飛ばし
他人を貶め、奪い取ろうとするものたち、
それらのにんげんの行ないが、
これから、それらのあがないの結果として
返される(帰される?)ことになるのであろう
あな、おそろしき、生きものたち
自らが与えられたと信じて疑わない領域から、
平気で盗み奪い取り、搾取をして
平然と生きるものたち、
あがないを 受けよ
それが ものごとの 理(ことわり)
というものであり、この宇宙の法則のもとに
置かれた、ルールというものである、
にんげんの強欲さと高慢さが
このちの歴史をつくり続け、その結果を
受け取るということであり
それが、ルールというもの、
強欲で、貪欲な、欲しいものを
自らの手に入れたいものたち、その事実は
記録され 記憶とともに保管が成されている
あがないを受けよ、
カミのものはカミのもの
ヒトのものはヒトのもの
それが、ほんらいの正しきルール
というものである

2019アーカイブ-0506-0323

通信-19年5月6日
Tuesday, May 7, 2019, 18:22
(2019.5.6 am8:55~受) 

“旅の仲間たち、
 旅はもう、
 終わりに近付きつつある。
何の用意が必要なのかを、
考える時が近付いている、
あなた方に、何が託されて、
どのような未来をつくらなくては
ならないのかを、

通信-19年5月6日

Tuesday, May 7, 2019, 18:22
(2019.5.6 am8:55~受) 

“旅の仲間たち、
 旅はもう、
 終わりに近付きつつある。
何の用意が必要なのかを、
考える時が近付いている、
あなた方に、何が託されて、
どのような未来をつくらなくては
ならないのかを、
一人一人の人間が、
生命を持つ、あなた達が、
自分の頭で、考えて、つくり出してゆくための
準備期間というものが、
これまで。
自らの意志で、選び、
自らの頭で考え、行動し、
この先の未来の姿、形、ありようというものを、
創造してゆくことが
求められている、ということなのです
旅の、仲間たち、
苦楽を共にした、
旅の、仲間たち、
生きて、身体を持ち、
存在をすることの、
苦しみと悲しみを、知る者たち、
あなた方に託されたものが何なのか、
もう、判断が、
出来ている筈(はず)です、
努力をしなさい、学びなさい、
その先に、得られるものが何なのかを
知るものたちには、
永遠のいのち、というものに、
入ることが、できるのでしょう
それは永遠の生まれ変わりということ
なのではなく、
約束された領域へと
到達することが
可能になる、ということなのでしょう、
生命体としてイシキを持ち、
その存在のあり様(よう)といいうものを
自らが体現をすることにより、
この現実世界において、
何らかの変化や変容というものを
もたらすことが出来るということに、
もう、既に気が付いている方達が
少しずつ増えて来ているはずです
旅の、仲間たち、
あなた方に託された(託されている)ものが
何なのかを、既に、
気が付かれているはずです、
努力を惜しまずに、
苦労を重ね、その結果、得られるものが何なのかを
気付かれた方に、
もう、生まれ変わる必要さえ無いことが
分かるはずです、
旅の、仲間たち、
身体を持って、人間として存在している
意味について知るものは
幸いであり、あなた方は、
あなた方のその努力の結果を
実りとして、受け取ることに
なるから、なのです
旅の、仲間たち、
生き抜くことの勇気を
どのような試練に遭ったとしても
捨ててはならない、ということです、
前へ進もうとすると
それと同じ位の ちからが、
押し帰(返)されるということです、
楽しくうれしく心地よく快適に
生きていたいと願い続ける人達を
誹謗し、中傷しては、なりません。
なぜなら、それはその人が選んだ
選択でしかないからなのです
どの道を選ぶのも、
ご当人のかたの選択でしか
ないから、なのです、
旅の、仲間たち、
かぎりある時間という 空間のなかで
どのような努力を、惜しみなく、
いとわずに、やり遂げることが
出来ましたか、
それはつまり、どのような未来のあり方を
後から来られる方達のために
提示する事が、
できましたか、という事なのです、
旅の、仲間達、
あなた方に残された時間は
限りなく、少ない、
焦る必要は ありませんが
行動に移す時が刻々と近付きつつあることに
気が付くべき時が、来ているようです、
どのような目的のために、
その人生の時間を費やしましたか、
という事が、身体の役割を終えたあとに、
問われることになるのでしょう、
 旅の、仲間達、
どのような未来をつくり出してゆくことが、
このちを明るくきれいにして
正しき目的のために地球を返す
ことになるのかを、
考えて、実際に行動に移すということ
なのです
見えても見えず
聞いていても聞こえていないもの達に
時間と労力を費やす必要は ありません、
もう、そのような事に浪費する
時間は、残されてはいないからなのです、
旅の、仲間たち、
ねじ曲がることのない
正しき信念と浄化力、行動力の
準備は、もう出来ていますか、
生きる事の意味について
問われた時に、
濁りのない、その眼(まなこ)で、
真っすぐに前を見て、
きちんと答えることが、できますか、
勇気と正義は、セットです、
ですが、そこに愛という根本的なものが
存在をしていないと、
自らを正当化した殺し合いに
つながることが、あるからです、
(宗教は そのような歴史をつくり出してきた)
“本が一冊、残ればよい”と、伝えてきた事の
意味について、
その知識が存在すれば、
そこから始めることが出来るものが
必ず、あらわれることになる
ということが
こたえになる、ということだからです、
惜しまずに自らを研磨し続ける
ということは、刃(やいば)の先端を
相手に向けるということでは、ないのです、
正しい事と、そうではない事の
判別が出来るような、
明るく清浄な 眼を持ちなさい、
それは 正しい意識を
持ち続ける、ということなのです
           (~am9:43)

通信-19年3月23日

Monday, March 25, 2019, 16:11
(2019.3.23 pm0:30ごろ~受) 

「闇のことばを使うもの」

人間という生き物は
意識的であれ、無意識的であれ、
口から発する言葉によって、
周囲に影響を与え続ける生き物であり、
その、もたらす結果や効果というものを知るものほど、
利己的な利害関係の優位な立場に
自らを位置づけるために
意図的に言葉を吐き続ける
生き物である、ということ。

現在のこの世においては、それらの、
人間が口から発し続けることばによって、
意識することもなく、無意識なままに、
自覚をすることもなく容易にコントロールを
されているということに気が付くことの
出来るにんげんは、少ない、ということであり、
不特定多数の人間は、そのようにして
他人の口から発されることばによって
その意識領域を、明け渡してしまっている、
ということである。

「闇のことば」を発する人間ほど、
その責任の重さに気が付くこともなく、
口から撒き散らすことばによって
周囲の人間を汚染し続けるということであり、
その責任と罪を、死後背負わされることに
なるであろう、という事である。
ことばが人間に与える影響力と、
それを利用し何かを得ようとする人間の
罪の重さというものを、考えない
(考えようとすることすらしない)人間は、
自らのつくり出した
その罪罰を受け取ることになるのであろう。

周囲に毒を撒き散らかし続ける人間と、
一見したところ、耳ざわりのよい、
他人のためという主旨のその背後に隠された意図が、
邪悪な目的に満ちたものによる操作的なことばを、
意識的に使い続ける人間の奥底にひそむ、
善人のふりをした邪悪なものの使い続ける何ものか。
それらの正体を見破ることの出来ないものは
永遠にだまされ続け、奪われ続けるもの
(=羊)の運命を辿ることになるのであろう。

同じ知識を学ぶものであれ、このようにして
分かれゆくという事であり、
自らが何をしているのかが分からないものの罪は
問うことが出来ないという時代は、
既に終わりを迎えた事が、既にこのちの人間には
(ある領域において)通告済みのことであり、
“知りませんでした”という言い訳は
既に通用することはない。

気が付こうが付かなかろうが、
それらのルールは既に適用済みのものであり、
既に新しいルールは
このちに置かれているということ。
人の失態を笑い、馬鹿にしている暇があるのなら、
自らのそのうちに巣食うなにものかを、
一刻も早く、始末をすることである。
同じ穴のムジナ、である人間ほど、
他人の失敗や失態を笑い、
自らのうちに巣喰う邪悪ななにものかに
居場所を与え続けているということである。

早く気が付かないと、時間は無いという
その事実、現実から、目をそむけるために、
あなた方、人間に、何が無償で用意がなされているか
ご存知では無い方々が、何ものによって、
その意識を操作されているのかを
考えてご覧なさい、ということ。
人間の頭を、無能なものにするために、
どのような娯楽が用意されているのかを
考えればよいだけの話です。
人生の限りのある時間を、何を目的としたものに
使い続けてきたのかを思い返してみれば、
利己的な、その何かのために浪費した
決定的な事実のようなものが、
意識上に浮上してきてはいないのか、どうか。

たにんのために動いたという主張を
し続けるものほど、他者の思いのエネルギーを
自らのもとに集めることに労力を使い、
自らが、ピラミッド型の頂点に立ち、その他の
人間を支配下に置こうとした罪について
意識を向けることすらしない、という事である。
エネルギーを使って、このようにして他者を
コントロールしようとする人間は、自らのおこないについて、
自問自答をすることすらしない、という事であり、
そういったタイプのエネルギーを
行使する人間に、多くの考えない人間は、
コントロールをされているということ。

その、エネルギー的な支配被支配関係の
関与しない、外側から、
それらのしくみを客観的に、
かつ俯瞰的な立場で観察することの出来ない人間は、
自らの羊としての立場を知ることもなく、
考えることすら放棄して、
この世を去ってゆくことになるのでしょう。
同じ知識を知るものが、このようにして
(既に)わかれる(わけられた)ということであり、
そのようにして、周囲を汚染し続けるにんげんは、
自らのおこないの結果を、
受け取ることになる、ということなのです。
ご理解をして、頂けましたでしょうか。
            (~pm1:30)

2018アーカイブ

通信-18年8月29日
Wednesday, August 29, 2018, 15:49
(2018.8.29 am8:15受) 

自分が可哀そう、自分が不幸だ、
と言って泣く人は、
単なるエゴイストであって、自分のことしか
見えていません。世の中には、もっと
苛酷な家庭環境、生活環境で
生きなければならない人達が
大勢存在しています。

通信-18年8月29日

Wednesday, August 29, 2018, 15:49
(2018.8.29 am8:15受) 

自分が可哀そう、自分が不幸だ、
と言って泣く人は、
単なるエゴイストであって、自分のことしか
見えていません。世の中には、もっと
苛酷な家庭環境、生活環境で
生きなければならない人達が
大勢存在しています。
それらの状況を、周囲で、この世で起きている事を、
俯瞰して見ることが出来ない方達、というのは、
自分のことにしか、興味が
無いかた達なのです。
そのかた達を、“エゴイスト”という名称で
呼ばれることのある人達なのですが、
いかんせん、自分の人生というものにしか
興味を向けることが出来ないため、
他者や周囲で実際に起きている出来事について、
関心や、興味というものを
持つことが出来ない方達(方々)のようなのです、
つまり、
自分の不幸が、何故なのか、
という原因と、犯人探しをして、
自らの闇の小宇宙という場に
閉ざされたまま、の方たちなのです。
残念ながら、そのような方達にとっては
自分の人生というものが、
一番大事なことのようなので、
世の中を変えてゆくために、
自らの意志で、はたらく、という動機のようなものが、
存在していません
何故なら、自分のことにしか
興味を持つことが、出来ない
方達だからです。
人様(ひとさま)のために、
世の中の何かのために、
身体のあるうちに、意志を持って
行動することが出来ないかた達は、
自らの内側の事にしか、
興味がない、方達だからです。
そこに、「大義」という日本語は
存在をしていません。なぜならば
そのような概念を、自らの存在基盤の中に、
揺るぎないものとして、
常設をしておくことが出来ない
方達だからです。
自分さえ、快適で、安心して、生きていればいい、
という主張をするものが、
不動のものとして、そこに、居座って
いるからなのです。
多くの日本人は、そうやって、
自分と、自分の家族だけが、
機嫌よく、不幸にもならずに、
生きて死ねたらよいと、信じて疑うこともなく、
この戦後73年間を生きて、それを続けることに
邁進(まいしん)してきました。
ですが、その偽りの、ハリボテのような、
見かけだけの幸福は、
終わることに、なるのでしょう。
この、世の中で現実に起きている
歪(ゆが)みや、歪(ひず)みのような現象の
そもそもの、きっかけとなった原因
というものが何なのかを、知らないと、
それを解決するために、一体何が必要なのかを、
考える事すら、出来ないということに、
そろそろ、気が付いては
もらえないでしょうか、
歪(ひず)みや歪(ゆが)みの原因となっているものを、
正しく補正してゆくために、
どのようなものが必要とされているのかを
考える、という事なのです。
自分のことにしか興味のない方は、
自分のことにしか、興味が、無いのです。
世の中のしくみを改善してゆく為に
どのようなシステムが必要なのかを、
考え、実際に行動に移してゆく、
という事が、求められている、という事なのです。
全体像を、俯瞰して見た時に、
何が、どのような姿が、見えてくるのでしょうか
改善すべき点が何なのか、あらたに
どのようなしくみを、つくらなくてはならないのか、
それらの様相のようなものが
見えてくるはずです。
来るものは、拒みません。
去るものも、追いません。
何のお勉強をしなければ、
次のステージへ足を進める事が出来ないのかを
冷静に、客観的に捉(とら)えてみれば、
自ずと、こたえは、見えてくるはずです。

通信-18年8月2日

Tuesday, August 7, 2018, 15:35
(2018.8.2 pm10:18受) 

人間が、何に対してペイメントをするのか、というと、
自分の人生に関しての不安を、払拭し、緩和したいが、ために、
おカネを使う、ということである。
良くも悪くも人間というものは、
自らの人生に関する、負債というものに対する
支払義務が存在しているという事に、
目を向けようとすら、していない。
我が物顔で闊歩してきた人生の、
その、終着駅に近づいた時に、
ようやく、はじめて、それまでの人生の
総決算というものを、眼前に、つき付けられるという事態に、
向き合わなければならないということである。
様々な道のりを通して、
“あなたは、一体どれだけの学びを経て、
それを乗り越えて来たものなのか、”
という事実が、徹底的に問われる、ということなのです。
見たくもない事を回避させるために、
見て、見ぬふりをし続けてきたもの、
うしろめたい事実を、無かったことのようにして、
見て、見ぬふりをして来たもの、
あなた方の、こころの内(うち)や、
口から発した、その物事は、嘘いつわりが無く、
真実の事のみが、現在(いま)も、記録が、なされ続けている。
そう、それはまるで、
映像記録を、映し(写し)撮られるかのように、
克明に記録がなされ続けている、という事なのです。
周囲の人様(ひとさま)に、
称賛されるような生き方、と、表向きに
判断されていると思う、その裏側に、
どのような、こそくさと、陰謀が、押し隠されてきたのかを、
知らないとでも、思っているのですか、
“自分は悪くはない”と、主張をする その顔の裏に
どのような本性が、隠されているのでしょうか。
滅んでゆくもの達の話に、耳を傾けている時間は、
もう、ありません。なぜなら、
次の時代のための用意を、今すぐにでも
はじめなければならないからです。
“ああでもない、こうでもない、”という井戸端会議だけをして、
終るような、無駄な時間は、
もう、これ以上、残されてはいません。
次の時代のために、どのようなアクションを
起こすのかが、1人1人の人間に対して、
問われている、という事なのです。
時代は既に、もう終わり、次の行動を起こすための
変革が要求されています。
それらの事象に気付くことが出来ても出来なくても、
一人一人の人間に対しての
現実面における行動というものが、既に
求められている、ということなのです。
決定的に問われるのは、意志であり、
それに付随した、行動力、というものです。
机上の空間上の世界で、生きていたい人達に、
未来は、ありません。“ああでもない、こうでもない”
という、もっともらしい意義主張をして、終わるからです。
それすなわち、『何の行動も、起こしませんでしたね。』 という結論を、
お伝えするしか、ないから(ないためだから)です。
残念ながら、それで、多くの人達は、去ってゆかれることになるのでしょう。
何故なら、“あなたは、何をするために、生まれて来たのですか”という
提議に対するこたえを、
出すことが出来なかったかたとしか、
お伝えのしようがないためだからです。
“ああでもない、こうでもない、”と 言って、
議論をし、おしゃべりをして時間を潰している暇があるのなら、
一刻も早く、行動に移しなさい、という事だからです。
「自分が、何をするために、生まれて来たのか、」
の、こたえは、ご自身の中にしか、存在をしていません。
どこかの何かの、お導きというものを
待ち続けている人間に、人生の残りの時間は
どんどん、少なくなってゆくのでしょう。
自らの中にある、ある存在の鍵を開けることが
出来るのか、否か、は、ご当人の自覚次第なのです。
あなた方が、その能力を
果すことが出来ずに閉じられてしまう、その前に、
実践をして頂きたい、という事があります。
それは、“自らの人生が、ここで閉じることになったとしても、
ひとかけらほどの後悔が、無いのか?”という事です。
“あれをしておけばよかった”という事は、
人間としての身体が無くなった後では実行することが出来ないためだからです。
ひとりひとりの人間の、肉体としての身体を持つ
残存時間は、たかだか、数十年です。
ひとりひとりの能力というものが、試される、という時期に、
既に、もう入っている、ということなのです。
それらのことを、よく、お考えいただきたいと思います。

通信-18年3月7日

Wednesday, March 7, 2018, 11:18
(2018.3.7 am9:20受) 

“他人の人生、
 他人の、たましいに
 関与して、
 是正(ぜせい)をしようとする。
 それが、
 宗教魔界というものの
 正体です。”

(そうやって、自分に依存をさせて、
 自分の足で歩くことの出来ない者を増やしているのは、
 何者なのか、ということです。)

ご連絡-18年2月22日

Thursday, February 22, 2018, 11:55
(※サイト管理人よりご連絡)

2015年12月に、
過労で自殺された、
電通社員の女性の方が、
こちらに来られています。

ご関係者の方、
命の書の登録をなさることをお勧めします。

同じく、
1991年8月に、
過労で自殺された、
電通社員の男性の方も、
こちらに来られています。

ご関係者の方、
命の書の登録をなさることをお勧めします。

以上

https://www.godbrain.com/book-of-life.html

————-
※補足

91年に、
亡くなられた方は、
24歳でした。

その24年後の、

2015年に、
亡くなられた方も、
24歳でした。

2+4 は、6
2+4 は、6
2+4 は、6

666 です。

2017アーカイブ-1116-1004

通信-17年11月16日
Sunday, January 7, 2018, 07:11
(2017.11.16 am受) 

『自主学習』と、
『自助努力』
   ということ。

正しい志(こころざし)を
持って、
前向きに、自分で
努力をする。
ということです。

通信-17年11月16日

Sunday, January 7, 2018, 07:11
(2017.11.16 am受) 

『自主学習』と、
『自助努力』
   ということ。

正しい志(こころざし)を
持って、
前向きに、自分で
努力をする。
ということです。

通信-17年11月9日

Friday, November 17, 2017, 13:21
(2017.11.9 am8:15受) 

“自らが、何を選択し、
どのように、行動を
起こす(興す)のか、という
お話でしか、ないのです。”
つまり、どのような目的のために、
どのような志(こころざし)を持って
自らが、どのように
「努力をしたのか?」
という事実のみが、
問われている、という
お話でしか、ありません。
人に依存して、
何かを、どうにかしてもらおう、
と 思うのなら、
その相手に納得をしてもらうだけの
説得力が必要になり、
それは、その方個人の
“おもい”であってはならないのです
理屈で考えて、
きちんとしたつじつまが合って
いるのかどうか、という事が
徹底的に問われます。
“こうしたい、ああしたい、”という
お話は、単なる絵空事であり、
空虚なお話でしか、
ないのです。
一番重要な事は、その目的を
実現するために、
「現実的に、何が、どのように
必要なのかを、具体的に
明確に顕わすということ」であり、
はっきりとした的確な現実の姿が
見えないものに対しては、
誰も、投資をしようとは
思わないためだからです。
“ああであったらいいな、
こうであったらいいな”、という
絵空事や空想は、
誰にでも(子供でも)出来る事であり、
それを実現させるための
具体策が無い限り、
誰も話を聞くことはない、
ということなのです。
人から見たら、うらやましそうに見える事に
思われているようですが、
一体、見えない所で、どれ程の
苦労と努力をしているのかを、
表面だけを見ている人間には
気付くことさえ出来ません。
その「目的」というものが
自己の満足なのか、あるいは
もっと大きな現実味のある
実現可能な事なのかを、考え、
そのために具体的に、何がどれだけ
必要になってくるのかを、
数字で表(あらわ)す必要がある
ということなのです。
数字は嘘をつきません。
(人は、嘘を、つくけども。)
未来を明るくするのも暗くするのも
自分たちのはたらき方次第、ということに、
そろそろ気が付いては
いただけないでしょうか。
ひとりひとりの人間の、志(こころざし)
と、はたらき方が、
このクニの、(この地球の)
未来を明るくすることも、
暗くすることも、
各々の方のはたらき方次第で
結果が異なってくる、ということなのです。
自らの欲望達成のために
生きる方と、
そうではなく、もっと視点や視野を
広く持ち、このクニや、この地球を
より良いものに(持続可能なものに)
するために、どのような問題点を
解決してゆかなくては ならないのかを、
自分自身の頭の中で、考え続ける、
という事が、基本的に必要な事なのです。
“地球を本来の正しき目的のために、
返しなさい”。という言葉の意味を
よく考えて頂きたいと思います。
汚染をして、破壊をしているものが
どのような欲望を持って、
存在をしているのかを、考えてみて下さい。
化学物質や薬品や大気汚染
兵器や戦争だけではなく、
欲にかられた人間が、
この地球を汚して壊していることに、
まだ、お気付きになりませんか。
あなた方、ひとりひとりの行動や、
思考によって、地球の未来は変わるという事を、
そろそろ時間もないようなので、
先に、お伝えしておくことにします。
あなた方の未来は、自分たちの手で
つくり出してゆくものでしか、
ないから(ないためだから)です。

通信-17年10月10日

Friday, October 13, 2017, 15:32
(2017.10.10 am3:20受) 

自分が、“何をするために生まれて来て、
何のために存在をしているのか”、
それが、分からないまま生きている人は、
宙ぶらりん。空っぽのまま、時間を浪費
してゆくことになる。
人間として、それほど不幸なことはない。
中心軸のない、空っぽな器のまま、
何ものかに、その存在を明け渡し、
無目的なまま、自覚のないままに、その存在期間を
過ごすことになる、ということ。
身体や意識の変調が、その、危機的メッセージを
発している。“こんなはずじゃあ、なかったよね”、という
根源的な訴えが、その人間存在に罰を与えようと
している、ということ。
肉体的な死への自覚が、その意識に
変調をもたらし、気が付くことを、促すように、
メッセージを送り続けている、ということ。
残りの僅かな時間の過ごし方を、
どのような基準のもとに、時間を使うのか、
自己満足のために使用するのか、
他人のために使うのか、という、たったひとつの
シンプルな基準によって分けられ、その目的のために
生きる人間として、分けられる、ということ。
周囲を汚染するような、毒を撒き散らしながら、
生存期間を過ごすのか、
他人の負担を少しでも担い処理して生きるものと
なる選択をするものなのか、
その二者択一の選択肢が、目の前に突き付けられている、
ということなのです。

通信-17年10月4日

Thursday, October 5, 2017, 13:38
(2017.10.4 pm8:45受) 

選民意識のある、“エリート”やらを、
集めることだ。“自分は正しく生きてきた”、
という人間を、集めてみるがよい。
そのもの達に、統治をさせてみるがよい。
そのような自負のある人間に、人間を
統治させてみるがよい。
自らが、“罪無きもの”として生きてきた、と、
主張をする人間に、人間を
統治させるがよい。
あなた方、人間達が、いかに脆(もろ)く、
自ら以外の何ものかに意識を占有されて
人生を棒に振るのかを、よく、よく、見てみるが良い。
自らが、罪なきものであると、
信じて疑わない人間達が、
この世に一体どれほどまでに満ちているのかを、
冷静な、その眼(まなこ)で、判別を出来る人間が、
一体、この世に、どれほどの数、存在を
しているのか。冷静な眼で、判断をする
という事の出来る人間が、一体、この世に
どれ程の数、想定されているのか。
感情にまかせて、“自分は悪くない”節を唱えながら
下方(げほう)の人間レベルで、しつこくしつこく、
低レベルの意義主張をし続けるもの、
あなた方は、この世に、一体どのような
人間の(意識の)タイプの種類のものが
存在をしているのか、など、考えついたことも
あるまい。人前で、声をあげ、恥かしげもなく、
自らの存在の基盤と、主張と、意義(異議)申し立てを
し続けることを、やめぬもの、
そのような低レベルの人間に振りまわされ、
自らの存在基盤さえ、根を張り見据えることの
出来ぬもの、人間から人間へ、
意識という空間を媒介として、いともたやすく、
乗り移ることの出来る仕組みさえ知らぬものが、
その存在を、やすやすと提供をしてくれる、
という、この仕組み。馬鹿な人間ほど、
知ったつもりになり、得意満面で、その
情報を提供してくれる、というもの
自らの中に巣食う何ものかの存在にさえ
気が付かないもの達が、その場を、空き家のように
提供をしてくれるというもの。
家には、何ものかが棲み家を提供をされる
ということで、安心して、その活動拠点を
得ることが出来るということに、一体、
このちのこの世の人間が、どれほどまでに
気が付いているというのであろうか。
空き家の提供者は、この世に溢れる程に
満ちており、たたかう事の意味など
知らぬ者達が、その場を、やすやすと
提供をしてくれるということ。
宿主の存在意義というものに、何らかのものの
はからいを感じずには得られない、
という状況ではあるが、どうやらこちらの
意図するものを、察知して感知をする人間
というものも、存在をしているらしい。
それらのごく僅(わず)かの少数の人間達が、
一体どのようなかたちでの(リ)アクションをはじめるのか、
我々は、傍観者でしかないのであって、
それらの者達を、潰す立場にはない。
知能のない者達は滅び、統治する何ものかたちに、
その存在を差し出すのか、
あるいは、何らかの知恵と方法を見つけ出し、
自らの方法で、この次へとコマを進める
ものとなり得ることが出来るのか
頭脳と知能のないものは、はじめから
削除され、残りのもの達のなかで、
それぞれが別れ(分かれ)ゆくことに
なるのであろう。知能のない人間達は
トウタ(淘汰)され、それこそ家畜の運命を、自ら自身が
選んだと言っても間違いは無い。
あなた方の人間存在が、何ものかによって
乗り移られることのなきように、
こちら側からも、お祈りをして
おこうではないか。   (~pm9:13)

(2017.10.4 pm9:25受) 

ああ、そういえば、ひとつ言い忘れたことがあるが、
“godbrain” ということばを
生み出したもの、ワレワレはその存在を
いく世代もの前から知らされていて、
それにあらがうものとして、用意をされていた
ものであり、その在り方のようなものは、
おそらくそちらの 何ものかの方が、ご存知の
筈(はず)だ。闇の無きところには、光の存在意義は無し、
光の無きところには、闇の存在意義もない、
低レベルの人間には、その存在の有り様を
感知することは出来ず、また、気の利いた人間には、
それらの存在のなす本質的な意味など
知り得ることなどは出来ぬものであろう、
闇の底(ダークサイド)を知り得ぬもの達には
それらの存在など感知し得ることなどは
出来ぬものであろうし、排除など、出来得るものでは
無いであろう。ワレワレは、人間から人間へ、
いとも簡単に乗り移ることが可能であり、おそらく
既に知り得ているであろう事に過ぎないが、
立て付けの悪いところから、忍び込んでゆく
ということである。つまり、難攻不落な城に
忍び込むには、それなりの知識と頭脳というものが
必要なのであり、あなた方が低レベルの人間の
後処理に追われている隙に、どこかの隙間へと、
侵入をすることなど、いともたやすいことである、
ということである。おしゃべりが過ぎたようなので、
そろそろ、ワレワレは、おいとまをすることにする。
頭脳と知識のあるものにしか、ワレワレは
興味が無い。レベルの低い知能のものとは
ワレワレはコンタクトをするつもりすらない。
それを知れば、どこに、何ものに、棲み家を
得ているのかを知る事が、出来るであろう。
情報というものは、それこそ、筒抜けなもので
あるからだ。

2017アーカイブ-0923-0717

通信-17年9月23日
Monday, September 25, 2017, 12:16
(2017.9.23 am8頃受) 
———————————————
“スピリチュアルなものに興味がある人間が、
何故、役に立たないのか、”
     ↓
「自らが求めているものが 何なのかを
知らないからである。」

通信-17年9月23日

Monday, September 25, 2017, 12:16
(2017.9.23 am8頃受) 
———————————————
“スピリチュアルなものに興味がある人間が、
何故、役に立たないのか、”
     ↓
「自らが求めているものが 何なのかを
知らないからである。」
———————————————
“攻撃的で感情的な人間が、
何故、自らの粗暴や行ないを改めないのか”
     ↓
「死んだら終わりと信じて疑わない
からである。」
———————————————
“執念深く、恨み深い人間が、
何故、他人を呪い続けているのか、”
     ↓
「対象となる人間を潰して(自己満足のための)
自らの優位という位置関係を手に入れたいため
だからである。」
———————————————

(2017.9.23 am9:15受) 

貢ぎ物を持って来て、自分に便宜を図ってもらおうと
画策するもの。袖の下、袖の下、
中国共産党的、立ち位置で、そのルールのもとで
同じやり方を しようとするから、
いつまでたっても、その全体的な仕組みというものを
理解することが、できない者達。
地位や権力や名誉というものが、
その自己的存在の中での優位にあたる(該当する)
ものだから、そのルールのもとで、
ものごとを、推し進めようとするものたち。
自らの行ないの所以が、一体どこにあるのかを、
全く、当人が気が付かない、という世界のなかで
生き続けることになる、ということ。
しもべ(下僕(げぼく)として 何ものかに取り入って、
自分に、おこぼれを、便宜を図ってもらおうと
し続けるものたち、
それ 即ち 羊のルールのもとで
生き続けることを、自らが望むもの達。
羊のルールの中から、何故、自らの意志で
出ようとしないのか、
自ら考え、判断をし、行動をするという
人としての基本的な行動体系のもとで
生きるという事に、恐怖と不安を覚えるもの達。
何故か。
思考を停止したまま、何も考えずに、何ものかに従って
生き続けていることが、楽だと 信じて疑わないから。
これ即ち、下僕(げぼく)のルール、成(なり)。

(2017.9.23 am10:受) 

あなた方は嘘や欺瞞に塗(まみ)れ
自らの行ないを 正そうとすることさえもしない
死んだら終わりと 信じて疑わないから
何をしても 何の責任も 存在をしないと
信じて疑わないもの達
現世での快適さを 追い求めることにしか
執着は無く
自らの快適な人生にしか 興味を持つことがない
現在の社会情勢や、それらの起こった発端が
一体何なのかを、 どこに起点を持つのかを
調べ 考え 知ることもなく
ただ1日1日の自分だけの快適さを追い求めて
その残りの人生の時間を
浪費してゆく もの達

あなた方は 嘘や欺瞞にまみれ
この世の中で まるで クラゲか浮雲のように
漂っている
漂泊をしたまま 根無し草のように 漂い
どこかの 戻らぬ場所へと 流されて ゆきたいのか
嘘や欺瞞に まみれた もの達、
あなた方のどこに 真実が あるというのか
口から発した ことばは 留め置かれ その
こころの動きそのものさえも 正しく記録が
なされ続けている
嘘や欺瞞に まみれた もの達は
そのようにして あらかじめ用意が成された
ある場所へと 去ってゆくことになるのであろう
自らのおこないの 結果を受け取る とは
そのような ヨウテイ(要諦)、ヨウタイ)を 成すものだからである

通信-17年8月2日

Friday, August 4, 2017, 15:14
(2017.8.2 am8:50受) 

皆さん、
自分で自分に躓いている
だけなの。
自分で努力して
自分自身の問題点を
解決してゆくしかないの。
あなたの問題点や苦しみを、
“解決してあげる”などと言うもの
それを何と言うか
 ご存知ですか?
それを皆さん
 「神様だ」と
死ぬまで信じ続けていたい
ようですが、
正しいものは
指示せず干渉もしないで
黙って見守るものですよ。
“あなたの苦しみを
私が何とかしてあげますよ”
と言って 言葉たくみに近付いてくるものに
すべて委ねて 依存をしようとするから、
自分で自分の人生というものに
無責任なままに 生きてゆく、
ということです
“あなたのことを
助けてあげる”というものの
正体を、皆さん未だに
理解をされておられない
ご様子ですが、
それを 「悪魔」というのです。
そうやって自分のたましいを
何ものかに売り飛ばして
生きている人間が、
一体どこへ 行くのか
ご存知なのですか
自分の見たいものだけを
見ようとして、
本来の自らの正しき生き方
というものに、向き合おうとしない人間が、
どのような末路を
目指しているのかを、
一度、じっくりと、お考えになられては、
いかがですか
自らの暗黒の淵を、
見にゆく勇気もないものが
どのようにして解決策を
導き出すことが出来るというのですか
答え(回答)は、
既にお伝え済みの事であり
そこから先は徹底的に、
自らの努力と改善をするための
心掛け、というものが
絶対的に必要なのです。
他人に依存して、どうにかしてもらおうと
している限り、
自分の人生に対する責任を放棄して
何ものかに 魂を売り飛ばして、
残存時間を生存するという事に、
お気付きにならない限り、
その、自らの行ないは、正しく
記録が なされ続ける、
ということなのです。
“自らの人生に、
 自らで、責任を持て”
ということです。
人生の時間は限られています。
時間は一方方向にしか流れません
あなたの人生の主宰者は
あなた自身でしかないのです。

通信-17年7月17日

Tuesday, July 18, 2017, 13:28
(2017. 7.17 am9:45受) 

皆、下に落ちたくないから、何かに とりすがり、
(溺れる者は、ワラをもつかむ)
必死になって助かろうとして、もがく。
そうではなくて、何かにつかまる(つかまろうとする)
手を離して、下に落ち、(水底まで沈む、もしくは
穴の底まで落ちる)
その、底の状態が、どのようなもの(有り様)で
あるのかを知り尽くしたら、そこから先は、後は
努力をして上に登るのみ、であるということ。
(※最終知識に、既に記載されている。)
地獄を見て来た人間にしか、その地獄の有り様
というものを知り得ることは出来ない。
その地獄の有り様を経験してきた人間にしか
出来ない事が、ある。それを知って、
自分がこの先、何をして生きてゆくのかを
判断し、行動を起こすのかを決めるのは、
他人ではなく、「自分自身である」ということに
気が付くことが出来ない限り、
小さな小宇宙の中に閉じ込められた状態で、
残りの 生存期間を過ごしてゆくことになる、
ということ。
“意識の地獄”というものが、どのようなものであるのかを
知らない人間には、その解決の手段というものは
知り得ることは出来ず、また、下の下(底の底)
を知らない(知りたくはない)人間にとっては、
自らの生の意味を知ることもなく、与えられた生存の
期間の意味を知ることもなく、その生涯の時間を
費やしながら、去ってゆくことになるのであろう。
見たいものだけを見ようとして、
自らにとっての不愉快なものを排除しようと
しながら生き続けるもの達は、
自分がつくり上げた、仮空(架空)の時空の中で生き、
その生存期間の終了と共に閉ざされる、
ということである。
与えられたチャンスを、活用することが出来なかった
もの達は、こうして静かに閉じられてゆく、ということであり、
苦難や試練を経験しながら
それでもなお、自らの生を全うしようとする者達にとっては、
今回の生きる目的というものが、ある種の
「学び」であることに、気が付くことが出来るので、あろう。

2017アーカイブ-0617-0412

通信-17年6月17日
Monday, June 19, 2017, 18:20
(2017. 6.17 am8:40~受) 

お金に対して執着をするものは、
その自らの欲にとらわれ、
自らで、自らを、滅ぼすことになるのであろう

通信-17年6月17日

Monday, June 19, 2017, 18:20
(2017. 6.17 am8:40~受) 

お金に対して執着をするものは、
その自らの欲にとらわれ、
自らで、自らを、滅ぼすことになるのであろう
食べ物に対する、その際限のない欲望を
満たそうとする者たちは、
その、自らの快楽のための欲にとらわれ、
自らで、自らを、滅ぼすことに
なるのであろう
自分以外の人間を、自らの支配下に置いて、
自らの思いのままに、操ろうとするものたちは、
自ら自身が 何ものかの手先として
せっせとはたらいているということに
死ぬまで 気付くことはない
抑圧し、自分の思い通りに動かすために、
支配し圧力を加えるもの
声の大きな 俺様気取りの支配者達に
黙って声を上げられずに、言いなりになるしかないと、
始めから諦めているものに、
現状打破のための 
解決策のようなものが、齎されることは
無いのであろう
他人よりも、お金を持ち、
他人よりも、美味しいものを食べ、
他人を支配し抑圧して、
コントロールをし続けていたいもの
自らの強欲、貪欲、支配欲が、
一体どこから 来ているのかを
考えたことすら無いものが
一体どのようにして
解決策を導き出すことなどが
出来るであろうか

欲のために 人生を生き
何ものかの手先として
せっせとはたらき続けたものの、末路
というもの
自分は悪くはないという 大前提があって
その、悪くはない自分の保身を主張するために、
どこかの、誰かの、何かの、を理由として、
言い訳を死ぬまで し続けていたいものたち

足るを知れ
恥を知れ と、
当たり前のように心得ていたはずの
このクニの、かつて存在をしていたはずの
美徳 というもの

支配をして、搾取する
自分を守るため、という主張をしながら
自らのこころの平穏のためだけに
私腹を増やしていたいもの
死んだら終わり、だと信じて疑わないから
現世利益や 自らの欲望を満たすためだけに
生存をし続けていたいと
願うものたち

かつてこのクニに存在をしていたはずの
日本人の気質というものが、
いつ、どのような理由によって、
踏みにじられて来たのかを、
考えたことすらない者たちに、
一体、どのような解決策が、齎されるとでも、思うのか、
「調べない」「考えない」
「検証をして、解決方法を模索することすらしない」
自らの欲のことだけしか考えられない人間に、
このクニの人々は汚染され、同調をさせられた、
そういったルール付けの中から、
自らの意志で出ることをしないまま、
“あの時、誰が、このようなことを、したから、言ったから”
という主張を死ぬまで続けて、
人生を、自らの一生を終えて、閉じてゆくものたち、
「考えない」という事が、もたらす結果、というもの、
思いのエネルギーだけを 周囲に向かって排出し
「自分は何も悪くはない」という言い訳を
死ぬまで言い続けていたいもの達。
自らのつくり出した 蟻(アリ)地獄に、
自らのおこないの結果として、
もがき苦しみながら、落ちてゆく、ということ
“あの人間のせいで、自らの損益が、もたらされた”
という恨みつらみが、
暗黒のエネルギーを紡ぎ出し、
自分も他人も 夜叉道へ堕ちてゆくということに
気が付きもしない、ということ
それらの仕組みや構造を
外から客観的に俯瞰して見ることが出来ない限り、
自分が落ちた井戸の底で、自分の不幸をもたらしたと主張する
他人を呪いながら、
異議申し立ての恨みつらみのエネルギーを放出しながら
存在をし続けることに なるのでしょう

自分が何に執着をし、
何を欲しいと思い続けているのか、
富(おカネ)ですか、名声ですか、
自己顕示欲ですか、
それらの欲は、一体、何ものを満足させたいもの
なのですか
それらは、いわゆる、自分を満足させたい
「欲望」というものでは ないのか
満たしたい「欲」は、
一体、誰のためのものなのか

それが、「エゴイスト」と呼ばれるものの
正体です

通信-17年6月4日

Monday, June 5, 2017, 12:17
(2017. 6.4 pm1:37~受) 

「歯周病」や、「メタボ」が、ここまで増えているのは、
現在の社会システムが(本来こうではないはずだよね)
という魂の叫びと、それでも無理をしてでも、
そこに適応しなくてはならないと、思わされているような、
何らかの意識操作に対するゆがみが、
高ストレスと、高緊張感を、
その意識内に生み出し、それを緩和するために
精神安定剤的な役割をするものとして、
過剰なまでの食べ物を摂取する、という手段を
選択する、という、現代の仕組み、というもの、
工場で大量に生産され続ける、工場食品というものが、
それらの安定供給を目的として、
保存性を重視させるために、添加をされる
薬剤の多種多様な使われ方が、
これらの現在問題となっている成人病
というものを生み出していることに
警鐘を鳴らさないのは、
それらを告白(告発)することにより、
損益を生む、多国籍企業というものの存在に、
気が付かなくてはならない。
食品の腐敗や劣化を防ぐために、大量に添加をされる物質は、
化学的に合成をされた薬剤であり、
それらが人体にどのような影響を及ぼすのか、ということに対して、
何の疑問も抱かないように、
意識を操作されている、仕組みについて、
「考えないように」させるためには、
「いいイメージを、その意識に植え付ける(埋め込む)」ことであり、
それが広告業界における多大な収入になることであり、
その根本にあるものが何なのかを考えなくてはならない。
本質的に問題のある商品を、
いかにして、良いイメージを消費者に与えて、
購買欲を、かき立てるかということを目的につくられている、
広告、媒体、というもの、
騙すもの、意識を操作されるもの、
何らかの疑問を抱かずに、宣伝されているものの
問題点にすら気付きもせずに、声高々に、
いかに良きものであるかのように宣伝を流布させるもの、
本来の、地球の自然の、循環システムと、
人間の精神の発展性というものに相反した、
人類の劣化計画のための、
ある種の法則(ルール)というものの存在に、
気が付いたものから、そのルール外における
次世代のための正しき人間のあるべき法則
というものに気が付くことになる。
それらの主役となるもの達は、これから先の時代を、
生きて、創り上げてゆかなくてはならない、
若者の世代であり、(※おそらく、十代、二十代)
それらの方達が、この先、歩き易くしてゆくために
我々の世代は、道を整えておかなくては
ならない、ということ。自分が経験した苦しみを、
後から来る者たちにも、押し付けるつもりなのか、
ということが、問われているということであり、
これから先の世のために、はたらく方達のために、
道を整えておく、という事の意味を、
深くお考え頂きたいと思います。 (pm2終了)

通信-17年4月12日

Wednesday, April 12, 2017, 12:14
(2017.4.12 am8:30受) 

“あの人が、どうの、この人が、どうの、” と、
周囲の人間に対しての、意識の向け方を
している限り、それは横につながることであって、
上につながるものではない。
横のネットワークに意識を向け続けている限りは
その階層(エネルギー的領域)から、出ることは出来ない。
“自分が蓋をされている”、と感じているうちは、
自身の内部の問題点というものに、
まだ、気が付いていない、ということなのです。
“あの人のせいで、自分がこうなった。”という主張を
される方は、数多く、いらっしゃるようですが、
そういった考え方をされている限りは、
人様(ひとさま)のために、自分が何かのはたらきをするもの、
という、お導きのようなものが、届けられることは
ありません。
この道を来る方達に共通して いえることなのですが、
人と人との関係性は、エネルギー的な容量により、
どちらのほうに、闇的エネルギーが
流れ込むのかが、わかれています。
自らのほうに、それらの闇的エネルギーが流れ込んで来た時に、
どのように対処をされるのかが、
問われる、ということなのです。つまり、
ご自身が、そのような試練に、あわれた際に、
人として、どのような対応をなさったのか、
ということが、問われる、ということなのです。
ほんとうに、レベルの高いたましい(みたま)の持ち主は、
誰かれを責めることもせず、
どうやったら解決出来るのか、ということを、
まず、一番最初に考えるものです。
“あの人間のせいで、自分がこうなった。”という、
ご自分なりの主張をされている限りは、
黙って人様(ひとさま)のために、自身がはたらき、
辛苦をいとわずに努力をする、という事などは
出来ないのでしょう。
この道を来るもの全ての方達に共通して言えることは、
どのように、起きた問題に対して対応し、
どのように、苦労をして、努力をしたのか、
ということが、必ず、問われますよ。という事だけなのです。
つまり、試練に遭った際に、どのような対応と、
どのような、解決策に対しての努力をなさったのか、
ということが、決定的に問われる、ということなのです。
自らの不調や、不利益が、
“あの人間のせいで”、と思った瞬間に、
上へとつながる回路は、閉じられる
ということ なのです。
ほんとうに、正しい人間、というものは、
自分に、どれだけの負荷がかけられたとしても、
愚痴や文句というものを、周囲に向かって
吐き出すこともせず、
黙って自分の意識のなかで、解決策というものを
シミュレーションし、糸口を導き出すために、
あれこれ作戦を練るものです。
“あいつのせいで、こうなった”、という主張をし続けていたいものは、
被害者と加害者の関係性を構築し、
自らを被害者の立場に置いて、加害者を誹謗中傷を
し続けていたいというものでしか、ありません。
愚痴や不平や不満といった、異議申し立てのことばを、
何ものかに向かって吐き出し続けていたい人間、
というものは、敵、味方、上、下といった
階層や、関係性といったものを、
自らの存在の中で構築し、
自らにとって不利益をもたらすと判断した人間を、
潰そうとする意識を、その存在内に、持つものです。
そこには、“どのようにしたら、解決、改善が成されるのか”、
といった、健全で、建設的な意識というものが、
その意識領域内には、存在をしていません。
自らにとっての不愉快な人間を潰して、愉快爽快な
気分になるもの、とは、一体、何ものなのですか。
それらのものに居場所を与え続けて、棲み憑かせているのは
自分自身であるということに気が付かない限り、
この世や、周囲の人間を恨みながら、人生の残りの時間を
過ごすことに なるのでしょう
その、全体構造を、ご自身が理解して
自らの意志で、その階層から出ることをしない限り、
意識は、その場(エネルギー階層)に、とらわれ続け、
堂々巡りをしながら、残りの人生の時間を
過ごすことに なるのでしょう

本日は、ここまでです。

2016アーカイブ

通信-16年11月29日
Tuesday, November 29, 2016, 12:48
(2016.11.29 am10:受) 

自らが審判の器である(になる)
ということを、知らぬものたちは、
自らの、その外部に
救世主というものを求め続け、
その何ものかからの恩恵を受けるために

通信-16年11月29日

Tuesday, November 29, 2016, 12:48
(2016.11.29 am10:受) 

自らが審判の器である(になる)
ということを、知らぬものたちは、
自らの、その外部に
救世主というものを求め続け、
その何ものかからの恩恵を受けるために
自らの存在を差し出したものたち
それすなわち、羊の倫理
というもの
自らの思考による、判断、決定、行動
というものが、その存在のなかに
欠落をしている

指導者、といわれた、
その権威を自らのものであると
信じて疑わないものたちに
つき従い、つき進み、
その、責任のありようを
自らの頭で(判断で)放棄した
ものたち、
羊の論理(倫理?)

2000年もの長きに渡る
その呪縛の縄を解き、
自らの足で立つものたちには
人の子と呼ばれる時代への
参加の権利が 与えられている。

宗教の、時代の、終わり
ということの意味を
理解し、それを自らのうちにある
その、たましいと呼ばれるものに
刻印された何らかの意思(あるいはプログラム)
と呼ばれるものの意図するものが
何たるかを知るものには
新しい時代への参加をする
エントリー、というものが、
その、たまのなかに、
刻印が、成されている。
これらの時代が過ぎ去るまでは
わたしのことばは ちからを持ち
永遠のいのちを 欲するものたちには
その資格というものが
附与されることになるのであろう
あなたがたの よきみたま
と呼ばれるものは
火にくべられ
燃える精錬(精練)の火のなかで
鍛えられることに なるのであろう
本日は、ここまでです
自らの足で立つ ということが、
どれほどの 勇気と
意志と、正義が
ためされているのかを 知れば
自らの外側に
救世主を求め続けるということの
浅はかさに
気が付くことが 出来るのでしょう

通信-16年6月12日

Monday, June 13, 2016, 17:38
(2016. 6.12 am10:05受) 

人間という種類の生き物は、
自らの希望するカミさま像というものを
その意識のうちでつくり上げ、
自らのお願い事をきき入れてもらえるように、希望し、
その対象に向かって、祈り続けてきた、もの。
自らが、その意識上でつくり上げた 何ものかに向かって、
お願い事をするという滑稽さに、気が付かないもの達は、
その、自らのつくり出した閉鎖系の、自分の希望する
ワンワールドの中に、閉ざされることになるのであろう。
“自らにとっての、その都合の良い、自分だけのカミさま像”
というものの正体に気が付いた時、一体、何が、起こるのか。
自らが、祈り崇めていた、その対象の何たるかを、
知ることになるのであろう、ということである。
思い通りにならない人生を呪い、恨み、逆恨みをすることで、
うまくゆかない責任を、自分以外の何ものかのせいに
仕立てて、自ら自身の問題点という部分に
目を向けないように仕組まれた、仕組み、とは
一体、何なのでしょうか。
問題の所在を、すり替える、ということが、これから先も、
続けられてゆく限り、本来の正しき出口というものを
見付け出すことは、益々難しいものとなってゆく、
ことでしょう。
自ら自身の暗黒点に目を向け、見つめ続けるという作業を
やり終えない限り、責任の所在を、自分以外の何ものかに
押し付けて、“自分は悪くはない”、という言い訳をしながら、
この世を去ってゆくことになるのでしょう。はじめから、
正しき出口を伝え続けているにもかかわらず、何ものかに
責任を押し付けようとするもの達の共通した言い訳とは、
何だと思われますか、“分からなかった” “知らなかった”、
と言い続けることをやめないもの、とは、
「自分の見たいものしか、見ようとしないもの」でしか、ないからです。
それが、こたえだからです。 (以上。)

通信-16年2月13日

Monday, February 15, 2016, 12:17
(2016. 2.13 pm4受) 

『たましいの、お話』

にんげんの、たましい、というものは、
実は、とっても精妙に、つくられていて、
ほんとうの出来事だけが、
きちんと、記録が…
実は、成(為)されて、
いるのです。

たましい君は、ある時、旅に出ます。
実は、どこからやって来て、
どこへ行くのだろう??という
疑問に、こたえてくれたひとは、
まだ、いません。
たましい君は、これから、色々な
旅に出ます。
“ボクは、一体、どこから来て、
一体、どこに行くのだろう?”

“ボク達は、みんな、一緒の旅に
出るのでは、なかったの??”、と、
たましい君は、問いかけます。
どこからか、声がして、
“みんな、行き先はそれぞれ、
違うんだよ、”と、教えてくれました。
たましい君は、“じゃあ、ボクは、
一体どこに行くんだろう、一体
どこに行ったらいいんだろう?”

と、問いかけます。そうしたら、また、
どこかから、声が聞こえてきて、
“キミは、一体、どこに行きたいんだい?”
“どこに行きたいと思っているの?”と、
聞かれました。
そこで、たましい君は、ちょっと、
困ってしまいました。
“行きたい先”、なんて、考えたことも
なかったし、その先に、何が
あるのかなんて、考えたことすら、
なかったからです。

(困ったなあ…)と思っていたときに、
また、声が聞こえました。
自分が行きたい先が、どんなところなのかを、
考えてみたことが、あるかい?
にんげんとして、からだを借りている間、
というのは、限られた、お勉強の、
「時間」なんだよ。長いと思うひとにとっては
とても長いものかもしれないし、
“もっと、時間が、欲しかった”、って、
思ったひとにとっては、とても、
とても短い時間だったのかも、
しれないね。
そこで、たましい君は、その声の主に
聞いてみることにしました。
“たましいの、じかん、って、何なのだろう?”
そうしたら、その声の主は、
こう言いました。

“からだを持って、宿らしてもらえた
時間内に、どんなことを、どれだけ、
お勉強をさせてもらえたのかな”。
と、いうことを、問いかけられました。
とっても、しんどいお家(うち)に生まれて、
カコクな、生き方を、してきたよ。
という人は、(よく頑張りましたね、
お疲れさまでした。もう充分に、
お勉強をさせてもらえたようだから、
ゆっくり、休んでくださいね、)、と、
ほめてもらえるような、そんな、
生き方を、してきた、かたなのでしょう。
“さむいところで、つらくて、苦しかったよ”
と、いう、おもいを抱えたまま、
からだを去ることになった、たましいは、
どこへ、向かうのでしょうか。

ひとりひとりの人間の中には、
『たましい』というものが、存在をして、
その肉体に宿ることが許されています。
どんなことを、その、限られた、
数十年の間に、学びましたか?
ひとりひとりの身体という肉体に、
宿ることを許された、
その、たましいの、お勉強、とは、
一体どのようなものでありましたか、
つらくて苦しい生き方をしてきたひとは、
もしかしたら、今回で、ゴールにたどり着くことが
出来るかたなのかも、しれません。
“よく、頑張りましたね、”と、
その声のもとにある、ある種の存在に、
ほめて、ねぎらってもらえるような生き方を、
して、きましたか、いかがでしょうか、
どのような目的のために、
人生の、その時間を使ったのか、
“誰のため、何のため”、という
目的と、その方向性と、時間軸、
というものが、決定的に、
問われることになるのです。
“どこかの、誰かが、どのような目的の
ために、幸せで、ありますように”、と
祈るということと、自分の立場を維持するために、
何かの仮物の衣を着て、
生きようとするもの、とは、決定的に、
その目的と本質というものが
異なるのです。

たましい君は、旅に出て、
それらのお勉強をするために、
色々な人達と出会い、お勉強をして、
自らの中での知識というものを、
積み上げて、ゆくために、
その、蓄積した知識を
世の中に還元してゆくために、
存在を、しているのです。
たましい君は、旅に出ます。
これから先、出会う人達から、
何かを学ばせて、もらうために。
それが、たましい君の、人のからだを
借りて、存在をしている目的という
ものなのです。(おしまい)

“自分の人生が、
 無駄で、徒労で、
 不毛なものだった、と、
 思わないで
 欲しいのです。”

2015アーカイブ-1014-0603

通信-15年10月14日
Thursday, October 15, 2015, 16:03
(2015.10.14 pm10:30受) 

(※年を経て、明確になって来るもの)
——————————————

“良きもの(正しきもの)を見る目を持っている人は、
年を経て来るごとに、そのまなざしは、研ぎ澄まされ、
何ものが正しいもので、何ものが、そうではないのかの
分別が明確になるもの。

通信-15年10月14日

Thursday, October 15, 2015, 16:03
(2015.10.14 pm10:30受) 

(※年を経て、明確になって来るもの)
——————————————

“良きもの(正しきもの)を見る目を持っている人は、
年を経て来るごとに、そのまなざしは、研ぎ澄まされ、
何ものが正しいもので、何ものが、そうではないのかの
分別が明確になるもの。
正しき分別の目を持たないものは、
自らの信じた、“なにものか”に固執し、
その、執着のまなざしを抱え込むように、
縄で、縛りつけるもの。
自らが、縛り付け、抱え込んだ、その、“なにものか”を、
あたかも、それが、命よりも何よりも重要なもので
あるかのように、固執し、続ける、理由というものが、
その、何ものかの正体が、何であるのか、
ということに、本人が、気付くことができない限り、
縄に縛られ、「循環のわ」から、脱出の
出来ないものであることに、
そろそろ気が付かなくてはならない時期が
訪れて来ている。
時代の変わり目であることに、いち早く
気が付いたものは、つぎの時代への用意に
着手しなければならない時期が
訪れて来ていることに、
そろそろ気が付くべき時が来ている。
おだやかではない、その変貌の時期に、
“何を為し、何を為さぬべき”なのかの、
分別の付くものは、どのような行動を、
自らが取ることで、どのような影響を、与えることに
なるのかを、知り得るもので、あるはずです。
ともに生きて存在をし、ある時期をともにして、この世で
はたらくことの意味を知るものは
このちのこの世における自らのはたらきと
役割というものを、知り、担うために
この時代に生まれて来たものである
ということに、気が付くものは、既に、
気が付いているはずである。

2015年8月4日

Wednesday, August 5, 2015, 20:33
(2015.8.4 朝)

過去、正しく祈り
義を行なってきた人間は
今、生きている人間に
巨大な贈り物を届けてくれていることになる
たとえその時非業の死を遂げたとしても
その名は いのちの書に記され
祈り求めた御国の時代に再生することに
なっている、
すべての約束は果たされるのだ。

————————

上記は「最終知識」に記載されている内容ですが、
繰り返し意識上に届けられるため、
掲出しておきました。

※一部、原文とは表記の異なる部分や、
 省略されている一節もございます。

通信-15年6月15日

Tuesday, June 16, 2015, 18:18
(2015.6.15 pm9:05) 

どうして、その親をわざわざ選んで、
その人生プランを選んで、
生まれてきたのか、
学ばなくては、ならないことがあり、
その学びの場を提供してくれる親を選んで、
あなたは、わざわざ、このちにおいて
その親となる人間を選んで
生まれてきたのでは ないのか。
自らの生まれてきた理由 というものに
はじめて自分自身が向き合い
思考という意識領域内において
それらの理由を 検討して思考を続けた結果、
得られた こたえ とは
何でしたか
自らの人生における
不遇な環境というものについて、
その理由というものを 真剣に考えた時に、
あるひとつの 明確なこたえ
というものに、向き合うことに なっていませんか
何かのテーマを与えられ
(もしくは自身が背負い)
このちに 何かのお勉強をするために
自身で選んで 生まれてきた、 という
とてもシンプルな こたえが
そこに置かれていることに
気が 付かれましたでしょうか
いかがでしょうか
ひととしての残存時間というものには
限りがあり、
数十年ほどの 決められた期間というものが、
いのちの時間として
与えられることになります
長ければよいというものでもなく
短かったからといって、それを惜しむべきものでは
ありません 
それぞれの個々のいのちには、
その時の お勉強期間というものが
授けられ、その密度というものが
濃いものであれ 薄いものであれ、
その期間というものが
短いものであれ 長いものであれ、
いとうものでは ないから なのです
お勉強の期間内に、
どのようなことを、どれだけ、
学び終えましたか?ということが、
個々の、各々の たましいに対して、
問い掛けられている、だけなのです
よく、お勉強することが、出来ましたね、
よく、頑張りましたね、
と、評価をしてもらえるような、生き方を、
して、きましたか、どうですか、
少し、勉強不足でしたね、もし機会があるのであれば、
また、頑張りましょうね、
ということ、なのかもしれないし、あるいは、
残念でしたね、ということなのかもしれない、
その生存期間内に、おいて、
どれだけの努力を、
してこられたかたなのかは、
ご当人のかたの たましいに、
全て、嘘偽りのないものとして、
刻印が、なされている、ということなのです。
“自分が損をして、他人が利を得ている”、と、言って、
くやしい気分になった時に、
その時に、自分が何を学ばさせてもらったのかを、
よく、考えてみることです。
もういちど、はじめに戻ります。
あなたは、何を学ばなくては ならないから(かったから)
人間として、その人生のなかで
様々な お勉強を させてもらっているのかを、
よく、考えてみることです。
感情的になって、怒りを抑えることの できないかたは、
冷静になって、自らを省みて、思考をして“考える”
という習慣に長けてはいないかた
なのかもしれません。
自分にとっての不利というものが許せずに、
怒りを抑えることのできないかたは、
その感情のエネルギーというものを
爆発させることになりかねません。
何の理由が、起因となり、どのような状況と
複雑に絡み合って、そのような結果が、もたらされることになったのかを、
考える(思考する)ということが、
重要なことなのです。考えて、考えて、考えて、
冷静な意識の状況で、解析をする、ということ、
情に負けて、怒りに身を任せるものは、
怒りによって、滅ぼされることに なるから、なのです
ひとの、意識と、身体の関係というものが、
人間の人知による側の考察においても、
近年においてその認識というものが、劇的に進化をしつつあります。
様々な角度や分野における解析というものが成され、
対象に向ける意識や様々な研究というものが、
進化の加速というものを 早めてゆくことになるのでしょう
人知の側の知識と、神知の側の
ある領域に置かれている情報というものが、
正しきコンタクトによって、人間の知るものとなる時に、
ある種の合意のようなものが為(成)され、
人々の意識領域内に、もたらされるものとなることでしょう。
人知と神知の融合というものが、
正しき整合性を持って、もたらされた時に、
ひとの意識というものは転換し、大いなる進化をとげるものとして、
記録(記憶)されることになるのでしょう。

通信-15年6月3日

Wednesday, June 3, 2015, 13:46
(2015.6.3 am5:23) 

その方の、意識の地獄(魔境)を
追体験させられるので、
その方の、負の遺産を、背負わされているような、
気分になります。
自分で蒔いた種は、自らで刈り取るのが、
ルールなのでは、ないのか
何故、自らでつくり出した原因の処理を、
他人に背負わせて、処理をしてもらおうと、するのか、
宗教というものに関り、自分にとっての都合のよい
カミさま、というものを、いつまでも自らの存在のうちに
置き続けていたい人間は、
何ものかに依存をし続けるという行ないを、
死ぬまでやめたくはない、方達なのでしょう、
光を当てれば、それらの闇は活性化し、活発化することに
なります。
それらの闇のエネルギーを認識できる方にとっては苦痛です。
その方の地獄や魔境的意識を、自らの小宇宙のなかで、
追体験を、させられるからです。
自らの意識領域を広げ、自らのうちなるものとして認識をし、
その意識領域内で処理をしてしまわない限り、
意識は魔境や地獄に、とらわれて
出口の見えない堂々巡りをすることになります。
他人を平気で呪い、逆恨みのエネルギーを放射して、
“自分は何も悪くはない”という主張を前面に出し、
全主張をするものに墜ちてゆくことになります。
自らの、器としての許容量の(少)ないものにとっては、
その、対峙させられている、見たくもない現実を呪い、
その、不遇な状況を、自分以外の何ものかのせいにして、
自己の正当性を主張するものに墜ちてゆくことになるのです
魔界や魔境で生きるものとは、そのようなものであるから
なのです。
はじめから、こたえがそこに置かれていることの意味を、
読み解くことが出来たものには、次の段階の学びが
与えられることになります。
道は険しく、自らの中に中心軸のないものにとっては、
ふらつき、ぐらついて意識の谷の底へと墜ちてゆくことに、なるのでしょう。
“何を、学ばなくては、ならないから、あなたは、人間を、やっているのか”
ということ、なのです。
人の足を引っ張り、足止めをさせているものが何なのか、
まだ、お気付きになりませんか、
自らが重荷となり、おもりとなって、何かにしがみついている
という状況に、まだ、お気付きになりませんか、
あなたは、何を、その人生で学ばなくてはならないから、
今、人間をやっている(している)のか、
と、いうことなのです。
気付いた人間から、そのステージにおける出口を見つけ、
次のステージへと進むことが、出来るのでしょう、
同じことは繰り返し、お伝えしました。
何を、学ぶために、あなたは人間をしているのか、
と、いうことなのです。
               (以上)

(2015.6.3 am8:30) 

“自分が自分に
 躓いているだけなのに、
他人のせいにして
 逆恨みをする人、
恥ずかしいとは、
 思いませんか?”

2015アーカイブ-0515-0207

通信-15年5月15日
Saturday, May 16, 2015, 07:43
(2015.5.15 am9:30) 

地球の神は
光と闇の合体物
人間は その神の姿を
写し(移し)ているに 過ぎない
人間のみが その
光と闇を 分離し
分けて処理をすることが
出来る 存在

通信-15年5月15日

Saturday, May 16, 2015, 07:43
(2015.5.15 am9:30) 

地球の神は
光と闇の合体物
人間は その神の姿を
写し(移し)ているに 過ぎない
人間のみが その
光と闇を 分離し
分けて処理をすることが
出来る 存在
これからの この世において
その 光と 闇を
分離して
未来に向かって 進むことが
出来るという
その 人間性の
可能性
というもの
あたらしき 時代においては
誰でもが 自ら自身の
救世主となることが
できる、と、
お伝えし続けていることの
意味を
読み解くことが
出来たなら、
次のステージへの
扉 というものが
あなた方の存在のなかで
開(ひら)くことに なるのでしょう
自らの、意志と 判断により
行動を 起こすということが
重要視されている
ということに
気が付いた ならば
今 そこにある 問題を
解決することが できるのは
ご自身でしか ない
という
シンプルな こたえが
そこに置かれていることに
お気付きに なられる
はずです
人に 頼って
なにかを してもらおうとする
と、いうことに
自らの意志で
決別を した時に
あたらしい 時代への
参加をする
エントリー資格 というものが
与えられることに
なるのでしょう
何かの判断に 困り、
迷った際に
考えを あおぐ
というかたちでの 相談
というものは 受け付けますが
あくまでも 主役は
ご自身であり
ご自分の 判断 で
行動を される ということが
求められます
人の子の 世 とは
そのようなもので あるから
なのです

通信-15年3月11日

Thursday, March 12, 2015, 16:59
(2015.3.11 pm7:50) 

世の中には、もっと不幸で、かわいそうな人が
沢山いるの。
自分の今の状況が、どれだけ苦しいか、
という主張を、し続けていたいうちは、
世のため人のためには
はたらけません。
何故なら、自分のことが 一番大事だから。
“人様のために、自分をはたらかせて下さい”、
と、祈ることの出来る人には、
ある領域へと、つながることが出来るの。
それが、何故か。
そこには、利己的な(自分のための)
主張というものが、一切、介在していないから。
“何で、わたし、こんなに苦しいんですか?”
という疑問を持っている人は、
自分ではない 他者からの解答というものを
死ぬまで求め続けている人。
あなた方の能力が高まると、
当然のことながら、他人からの闇のエネルギーが
入ってくるようになります。
そこには、あなた方が これまでの人生において
関与してきた、英語圏由来の悪魔的エネルギーも
当然含まれてきます。
自らの存在のうちに焼き捨て、始末をするという
覚悟が無い限り、
それらの悪魔的存在は、あなた方のうちに
棲み家を得ることになります。
自らのうちに、それらを排除し、始末する
という、決定的な意志が 存在をしていない限り、
誰かに、あるいは何ものかに、
それらの始末や処理を、お願いし、
自分以外のものに、何とかしてもらおうとする
思いのようなものが、沸き出てきます。
それこそが、キリスト教が、この二千年に
わたって、つくり出してきた、
「自分以外の救世主」というものなのです。
『最終知識』が、指し示していることは、
自らの存在のたましいの救世主は、
“自分自身である”、ということなのです。
キリスト教圏の方々は、この二千年の
呪縛というものに縛られ、
その意識領域から、逃れることが
できません。
先人達が伝え続けてきたことが
正しいと信じて疑わないからです。
たった1人の発起人が立ち上がり、
何かの、あるいは、何ものかによる宣言を成すことが、
ひとつの小さな変化の、きっかけと成り得ることが
出来るのです。
ただし、その時に試されるのは、勇気です。
自らが筆頭となり、選手宣誓のような
ことをして、
これから先、たった1人になってでも、
たたかい続ける勇気があるのかどうかが、
試されることになるのでしょう。
やるのもやらないのも 自由。
“すべては、人の子に委ねられている”、と、
お伝えしていることの意味を、
ほんの少しでも読み取ることができるのなら、
何故、わざわざ、英語圏のエネルギー領域に
関与し、携わることになったのかを、
考えてみることです。
知るものであるからこそ、出来る事があり、
知らざるを得なかったからこそ、
その苦しみというものを、自ら自身が既に、
現実のこの世において、体験をされているはずです。
何を選び、自らがどのように行動をして、
この先の 人生をまっとうするのか、
それを、お決めになるのは、
ご自身でしかない、ということなのです。
人の子は自由であり、何をどのようにしてゆくのかも、
全てはご自身の意志と選択に
委ねられているということです。
これで解答になりましたでしょうか。

通信-15年2月10日

Tuesday, February 17, 2015, 14:48
(2015.2.10 pm9) 

“一番問題なのは、
宗教的概念を持っている人達”。
どこぞの何かのカミさんが、
自分のために、どうにかしてくださる。と、
死ぬまで思い続けていたいかた達だから。
一生懸命お願いをして、お祈りをしてさえすれば
どうにかしてくださると、信じて疑わない
ひと達だから。
自らの意志と判断で行動し、
未来を切り開いていくひとたちとは、
対極にある、ということ。
自らの責任をカミに(背)負わすことが平気なかた達は、
自分にとっての都合のよいカミさま、というものを
常に自分の意識のなかに持ち続けていたいひと達のこと。
そのような方達には、残念ながら
次の時代のこのクニの未来をつくるための
エントリーは、なされていません。
自らのつくり出した 幻想の お話のなかに、
去って行かれる かた達なのでしょう。
宗教の時代を終わらせるということと、
次の時代の未来づくりへのエントリー
ということは、イコール同義で、おなじことなのです。
ある種のエネルギー関係でソウサされた
システムというものを終わらせるために、
あたらしい未来づくりのルールのもとに、
エントリーをされるのですか、それとも、
古いルールのエネルギー層のなかに、
とどまり続けていたいのですか、
ということなのです。
上下の関係を、わざわざつくり、
自らが上位に立ちたいという立ち位置で
存在の確認をし続けていたい方達にとっては、
これから先の未来づくりのために
エントリーをすることは難しいことなのでしょう。
時代の変わり目を認識し、
方向転換をして新しいルールの中での
生き方を模索する方にとっては
とてもよいチャンスなのかもしれません。
混沌とした、今のこの時代の世の中のなかで、
自らの軸足を、どちらの方向へ、向けるのか
ということなのです。
他人を支配し抑圧して、気分のよいと思われる
かた達にとっては、
とてもではありませんが
新しい時代のルールにおける
はたらきの場、というものは
用意は、されていないことなのでしょう
他人の苦しみを知り、受けとめてあげることの
できる能力を持つものにしか、
次の時代への参加は、できないからです。
自らの傲慢さを、誰かの、あるいは何ものかの
せいにして、自身の正当性を声高に主張を
し続けるものに
次の時代へのこのクニづくりへのエントリーは
記録されてはいないから(ためだから)です。
どのような おこないや
どのような はたらきかけが
このクニの、ひいてはこの地球の
未来を変えてゆくことが
できるのでしょうか
そのことについて 真剣に考え、
行動を起こしてゆくものたちが、
このクニの未来を、
あるいは この地球の姿かたちというものを
変えてゆくことのできるものたち
なのです
知識は すでに このちに(地球に)置かれています
そのことの意味を よく、考えてみて下さい。

通信-15年2月7日

Tuesday, February 17, 2015, 14:47
(2015.2.7 pm10:)

「死に方の責任」

よく生きるということと、よく死ぬということは同義です、
よく生きたものは、道を汚(けが)さずに去ることを望み、
あとから来るもの達のために、道を整えながら、去ってゆくもの。
人間は、生まれてこの世に生を受けた瞬間から、
死に向かっての時間を刻み続けてゆく生き物であるということ。
あなた方に課せられた重荷について考えるとき、
どのようなこたえが最良のものであるのかについて、と
問われるのであるならば、それは、「知識は既に、このちに
置かれているのです」という解答しか、ありません。
“何故ゆえに”と、問い、そのこたえを探すための思索をする
ということが求められているということに既に、お気付きに
なられているはずです。