〈プロローグ的モノローグ〉2

なんで、こんなやっかいな人間として生まれてしまったのか、ということを、考えるために人間は生まれているらしい、と私が思いはじめたのは、十八才ぐらいのことだったかナ、当時、私の父が、私が高一の夏休みに自死して、父を死に追い込んだ、ウツ病の原因となるエネルギーを全身にため込んで、人を殺すことと、自分を殺すことばかり考えていた頃のことです。

私の母方の叔父、その人物は昭和の時代の少年院の伝説ともいわれた教官だったのですが、その叔父が、会いに来てくれて、いった言葉があります。

「あのさあ、いまの君のその目、気になるんだよね。オジさんが知っているその目は、殺人者のものなんだな…。…。…。気を付けないとナ…」

ドキッとしました。見破られたと思い、冷汗が出ました。なんで、こんなやっかいな人間になっちまったんだろう。なんでだろう。なんでだろう…。

ほかの人間は、もっと楽そうに生きているように見えるのに、なんで、自分だけがこんなに面倒臭い人間なのか、という堂々めぐりが続くのです。

(つづく…)

二千二十二年 五月二十七日 積哲夫 記

〈プロローグ的モノローグ〉

人間というものは、まことにやっかいなもので、そのやっかいな自分と向き合うことで、大のオトナ、くり返すと、ダイの大人への道を歩むのです。このプロセスは、たぶん、すべての人間に共通する通過儀礼です。早く通り過ぎれるヒトもいれば、いつまでかかっても、通過できないヒトもいるワケで、当然、「引きコモル」モノや、「落ちコボレル」モノも生まれます。
そうなると、人間の頭の中には、次のような、自分のもののような誰かのもののような言葉が棲み憑くようになるのです。

「アー、イヤだ、イヤダァ~。ナニが嫌だって、ナニより、自分が嫌だァ~」
その別バージョン
「ウー、ウンザリだ。ウンザリだ。こんな毎日、ウンザリだ。こんな人生、もう、ウンザリだァ~」
その他にも、別なバージョンが無数にあって、頭の中に、気が付くと、流れていて、それを忘れるために、脳を暴走させる方向に使うようになるのです。理屈は、そうです。いくらへ理屈をこねても、そうなのです。

(つづく…)

二千二十二年 五月二十日 積哲夫 記